私の手のひらに貴方のオイル

ぐるもり

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ちかく、とおく、ふたりで、いっしょに

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中原彰人なかはらあきと……さん」



 見積もりの話をしましょう。と、紗江は二階の事務所に案内される。応接室に通された後、頂いた名刺には自動車整備士の資格名の下にそう書かれおり、無意識のうちに名を読み上げていた。その声が自分でも気づかぬうちに色付いたものになっていて、慌てて取り繕う。紗江のそんな様子に気がつく事なく、彰人は『そうです』と垂れ目を更に下げて返事をする。その笑顔に紗江は無意味な取り繕いが更に必要になってしまった。


 名前一つで慌てた心が落ち着いてくると、『あきちゃん』と呼ばれた所以を理解する。彰人だから、あきちゃん。随分可愛い名前で事務員さんに呼ばれていたなぁ、なんてことを思い出して、心の中でもう一度彰人の名前を呟く。たったそれだけなのに、思わずにやけてしまいそうな頬を必死に引き締めて、紗江は出された申込書に自分の名前と住所、電話番号を書き込んでいった。


「信田紗江さん……ご近所なんですね」
「そうなんです。ネットで調べて……たまたま近くにあったので」
「そうなんだ……」


 紗江のボールペンの動きを追いかけつつそんな声かけをされ、顔をあげた。すると何処か思案顔をする姿。
 何を考えているんだろう……。あまり異性に踏み込むことのない紗江だったが、この人の事を知りたい、と素直に思った。その事実に戸惑いながらも、紗江はこの感情が何なのかを少しずつ理解していく。

「……あの?」
「あ、すみません。実は他の修理もあるので、三日程いただけるとありがたいんですが…。お急ぎですか?」

 三日。修理にかかる日数と自身のシフトを照らし合わせる。明日も休みで明後日は夜勤の入り。明々後日が夜勤明けになるので車が無くても生活できそうだと紗江は判断した。

「大丈夫です。三日後の午後取りに来てもいいですか?」
「ありがとうございます」
 
 夜勤明けで取りに寄ってもいいかと思ったけれど、睡眠不足の顔のまま会いたく無い。そんな乙女心を自分が持っていたことに驚きつつ、紗江はそう返答していた。

「わかりました。何かあれば電話します。代車はいりますか?」
「いえ、いりません」
「そうですか、では金額なんですが…」

 サーモスタットが故障していた場合、部品取り寄せになる事、その際の料金やそうで無かった場合ものそれぞれを丁寧に説明され、納得した上で修理を依頼する。その際に、またお日様のような笑顔を見れるかな、と思ったけれども、修理が立て込んでいたのか途中で事務員さんと交代になってしまいそれは叶わなかった。
 三日後、また会えたらいいな。そんな淡い期待と共に、紗江は中原モータースを後にした。






「おはようございまーふ」

 ます、の所であくびが出たせいでおかしな挨拶になったが、紗江の挨拶に病棟スタッフが同じように返事を返してくる。ちろちろと視線を動かし、ステーションの中に鬼主任がいないことを確認すると、ホッと胸を撫で下ろした。こんな腑抜けた挨拶を主任が聞いたら、『しゃんとなさい!』と確実に怒鳴られるからだ。

「お疲れ様です。信田さん」
「こもりんお疲れー。手術帰ってきてる?」

 紗江は、一つ年下の同僚看護師の小森百合子こもりゆりこに今日の日勤の状態を確認するために声をかける。顔に明らかな疲労が見えているので、今日は忙しかったんだろうなぁと容易に想像できてしまった。

「緊急の手術が一件あったから、まだ二件帰ってきてません」
「あらら。今日の夜勤は大変そう」

 他の人が聞いたら、本当にそう思っているのかと聞き返されそうなくらい軽い口調で紗江は返事を返す。電子カルテが内蔵されたパソコン画面を開き、患者情報をチェックすると、百合子がある一点を指差して紗江に状況を説明してきた。百合子の指差す先には、重症患者一覧表。そのトップに見たことのある名前が載っていることに紗江は驚きを隠せなかった。

「……前野さん」
「昨日具合が悪くなって入院したみたいです。かなり状態が悪いようで……」
「……そう。確か、蘇生はしないで、自然に看取るんだよね……」

 百合子の言いにくそうな様子を見て、紗江は瞬時に状況と状態を察する。そして、ナースステーションの端に置いてある心臓の動きを確認するモニターに前野の名前が入力されているのも、それを裏付けるものとなっていた。明らかに異常な心電図の波形。それは、医療従事者が見れば、もう長くないだろうという事がすぐに理解できるものだった。

 今話題に出てきた前野は、紗江が新人時に初めて担当した患者。手術、治療と長い間病気と向き合ってきた一人で、紗江はこの人から色々なことを学ばせてもらったことを思い出す。色々な事があったなぁ、と思い出に浸りそうになった時、内線の音がステーションに響き渡る。その音で紗江は自分が今仕事中であるという事を思い出す。慌ただしいステーションをくるり、と見回した後に、拳をぎゅうっと握りしめ、紗江は必死で気持ちを切り替えた。


「さて、今日もがんばりますかー」

 全員ぶんの看護情報を印刷して、申し送りの準備に取り掛かる。忙しい夜勤の始まりだなぁ、と思っていると、本日の相方の少し青い顔をした看護師一年目の子が、緊張したように心電図モニターを睨んでいた。その緊張、わかるよー!と共感の意味を込めて、紗江は彼女の肩を叩く。気合を入れるために、座り心地のいい師長の椅子を拝借して、パソコンの前に腰掛ける。
 後ろから、まったくもう!と師長の声が聞こえたけれど、今日は煩い主任が居ないのをいい事に、紗江は聞こえないふりをするのだった。



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