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さみしい左手
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面会の日はいつも半休を取っているから、そのまま家に帰れたのは幸いだった。昨日、じゃがいもが安かったことも。テオの帰りまで、まだ十二分に時間があることも。
こういう日は、一度椅子に腰を下ろしでもしたら何もできなくなってしまう。おじさまが持たせてくれたケーキの小箱を日の当たらないにところに置いて、そのまま夕食の支度に取りかかることにした。
野菜を洗う指先にしんと纏いつくように立ちのぼるのは、さみしさの名残と怒りだった。こみ上げたそれらはゆるやかに混ざり合い、目の奥をひそやかに焦がしてゆく。
こんなふうにひと筋の苛烈さが胸に吹きつけるとき、いつだって私は一人きりだった。
胸の内で吹き荒れる風はそのままに、私は黙々とじゃがいもの芽を取っていく。わずかに飛び出た突起を包丁の刃もとでえぐっていると、自分の醜さが一緒に取り除かれているような気さえする。一通り芽を取り終えると、皮に薄く切り目を入れてころころと鍋に入れた。
包丁の扱いが不得手な私に、じゃがいもは水から茹でるときれいに皮が剥けると教えてくれたのはテオだった。王立騎士団の食事を作っている料理人から聞いたというその方法を一緒に試したのは、もう数年も前のことになる。
私たちは二人暮らしだから、家で一番大きな鍋もさほど大きくはない。ふつふつと煮えていく鍋の中を見ていると、湯気が柔らかく頬をくすぐる。この方法でじゃがいもの皮を剥くのは、本当のところはポトフには向いていないのだけれど。それでも、私はこの剥き方が好きだった。
一度沸騰させたあとに火を弱めてしばし経つ頃には、ざわめいていた胸のうちも凪いで落ち着いてきた。
ふきんの上で冷ましたじゃがいもが持てるくらいの熱さになったら、皮の切れ目を押し開くようにする。そうしてじゃがいもの皮がするんと剥けるとき、私はいつもちょっとうれしくなった。
じゃがいもの皮を剥いていた私は、最後の一つに取りそびれた芽が残っていることに気づいた。
包丁の刃もとを芽に当てたとき――ふっと左手から力が抜けて、じゃがいもが転がり落ちる。
途端。脳裡におじさまの言葉が蘇って、私は唇を噛みしめた。
――テオは、家でよく料理をするそうだな。君が包丁を扱うのがうまくないと言っていたとき、テオは心なしか嬉しそうだったよ。林檎なら俺も剥ける。次の面会から教えようか? 何、そんなに難しいことじゃない。
その瞬間胸に湧き起こった気持ちまでもが追いついてきて、私は首を振る。
床に転がったじゃがいもは、すこし潰れている。まだ皮を剥いていなくてよかったと手を伸ばしたとき、玄関の扉が叩かれて、鍵を開ける音がした。
扉の向こうに現れたテオは、しゃがみこんだ私とじゃがいもの間で視線を行き来させると、なるほど? という顔をした。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさい。今日は早いのね」
「はい。先週、先輩と休みを交代したので、その分早く上がらせてもらうことにしました」
テオはちょっと潰れたじゃがいもを拾い上げると、そっと手を引いて立たせてくれる。
「ポトフですか?」
「ええ。私がうまく作れる数少ない一つよ、知っているでしょう」
「ポトフはスープのようなものですし、シチューにだってなりますよ」
黙り込むと、テオは私がうまく小麦粉を扱えずにダマだらけになったシチューを思い出したのだろう。ああ……と声を漏らした顔を小さく睨むと、テオはくすくす笑いながらすみませんと謝った。
「随分お上手になられたと思いますよ」
「いつまで経ってもテオに追いつけないままだわ」
「一緒に料理すれば解決することです」
腕をまくって手を洗ったテオは、当然のように私の隣に立ち、出したままになっていた野菜を切っていく。軽やかに立つ包丁の音を聞くうちに、緩やかに気持ちが落ち着いていくのがわかった。
こうしてふたりで並んで料理をするのは、この国で生計を立てていくために私たちが結んだ小さな約束だ。
私たちの暮らしは、たった一つの大きな約束と、たくさんのごくささやかで他愛のない約束が降り積もった上にできている。
野菜を切ったり鍋を覗き込んだりしながら、今日のできごとを共有するのも、そうした何でもない約束の一つだった。
テオは王立騎士団、私は勤め先の商家で起こった小さな出来事をぽつぽつと交わして、日が過ぎれば忘れてしまいそうなことに笑ったり眉を顰めたりした。私の仕事はさして代わり映えのしないものだけれど、テオはいつだって真面目に耳を傾けて頷き、まるでひどく興味深い話を聞いているかのように質問を挟んでくれる。
「おじさまがいつものようにケーキをくださったから、食後にいただきましょう」
「ご存じでしたか? 面会日には、団長自らケーキを買いに行っているんです」
えっと驚くと、テオは内緒ですよと言って片目を瞑った。
「知らなかったわ。いつも私の好きなケーキと、季節のケーキを用意してくださるのよ」
「ちなみに、俺は食べ過ぎないようにと言いつけられてもいます」
「まあ、そうなの? 一人では食べきれないわ」
「はい。しっかりいただきます」
よかったと呟いた私は、箱の中のケーキを思い出す。
いつだってきちんと用意されているお茶菓子は、これまでにもおじさまから良くしてもらっていることを教えたけれど、今の話を聞くと重みが増した気がした。
くつくつと煮える鍋をかき混ぜていると、バゲットを切るテオの視線が頭を撫でた。
自分の髪に触れようとして、料理中であることを思い出してやめる。
「……もうわかる?」
「そうですね。明日は休みですし、染め直したほうがいいでしょう」
「年を重ねると髪が伸びるのも遅くなると言うけれど、本当かしら。すぐ伸びるんだから」
「ずっと俺が染めてさしあげますから、ご安心ください」
ずっと。瞬いた視線の先で、テオが微笑む。
切れ長の青い瞳がたわむと、どこか冷たい印象の整った顔立ちに春が滲んだように優しくなる。
私をあたたかく包み込むまなざしは、いつだってすぐそばにあった。もうすっかり当たり前になってしまったから、これからもずっとそうなのだと信じ切っていた。今日という日が来るまでは。
(テオは、自分に縁談が来ていると知らないの?)
おじさまに確認しておくべきだった。
そう思いながら見つめた先で柔らかに微笑むテオの顔には、何の虚勢も後ろめたさもない。
私の知るテオという人なら、既に縁談を承諾しているならずっとだなんて言葉は使わないだろう。それこそ、承諾する前に私に話してくれるに違いない。
彼という人について理解しているからこそ、私は心に浮かべた問いをうまく音に乗せることができなかった。
意気地なし。ぽつりと無言のうちに呟いた言葉を飲み込んで、私は曖昧に微笑んだ。
「味見する?」
「はい。……心配なさらなくとも、おいしいですよ」
「何か足さなくてもいいかしら」
テオは小さく笑んで、ご心配でしたらどうぞと私に味見をするよう促した。
……確かに、今日のポトフはいい出来だった。じゃがいもがかなり柔らかくなっているのはいつものことであったから、そっと器によそう。
たぶん、きっと。
私たちの間にある約束を一つひとつほどいていって、テオを解放したほうがいいのだろう。
そんなことを考えながら食後にいただいたケーキは、いつものようにおいしく、優しい味がした。
ただ少し、いつもより食べるのに時間がかかってしまっただけで。
こういう日は、一度椅子に腰を下ろしでもしたら何もできなくなってしまう。おじさまが持たせてくれたケーキの小箱を日の当たらないにところに置いて、そのまま夕食の支度に取りかかることにした。
野菜を洗う指先にしんと纏いつくように立ちのぼるのは、さみしさの名残と怒りだった。こみ上げたそれらはゆるやかに混ざり合い、目の奥をひそやかに焦がしてゆく。
こんなふうにひと筋の苛烈さが胸に吹きつけるとき、いつだって私は一人きりだった。
胸の内で吹き荒れる風はそのままに、私は黙々とじゃがいもの芽を取っていく。わずかに飛び出た突起を包丁の刃もとでえぐっていると、自分の醜さが一緒に取り除かれているような気さえする。一通り芽を取り終えると、皮に薄く切り目を入れてころころと鍋に入れた。
包丁の扱いが不得手な私に、じゃがいもは水から茹でるときれいに皮が剥けると教えてくれたのはテオだった。王立騎士団の食事を作っている料理人から聞いたというその方法を一緒に試したのは、もう数年も前のことになる。
私たちは二人暮らしだから、家で一番大きな鍋もさほど大きくはない。ふつふつと煮えていく鍋の中を見ていると、湯気が柔らかく頬をくすぐる。この方法でじゃがいもの皮を剥くのは、本当のところはポトフには向いていないのだけれど。それでも、私はこの剥き方が好きだった。
一度沸騰させたあとに火を弱めてしばし経つ頃には、ざわめいていた胸のうちも凪いで落ち着いてきた。
ふきんの上で冷ましたじゃがいもが持てるくらいの熱さになったら、皮の切れ目を押し開くようにする。そうしてじゃがいもの皮がするんと剥けるとき、私はいつもちょっとうれしくなった。
じゃがいもの皮を剥いていた私は、最後の一つに取りそびれた芽が残っていることに気づいた。
包丁の刃もとを芽に当てたとき――ふっと左手から力が抜けて、じゃがいもが転がり落ちる。
途端。脳裡におじさまの言葉が蘇って、私は唇を噛みしめた。
――テオは、家でよく料理をするそうだな。君が包丁を扱うのがうまくないと言っていたとき、テオは心なしか嬉しそうだったよ。林檎なら俺も剥ける。次の面会から教えようか? 何、そんなに難しいことじゃない。
その瞬間胸に湧き起こった気持ちまでもが追いついてきて、私は首を振る。
床に転がったじゃがいもは、すこし潰れている。まだ皮を剥いていなくてよかったと手を伸ばしたとき、玄関の扉が叩かれて、鍵を開ける音がした。
扉の向こうに現れたテオは、しゃがみこんだ私とじゃがいもの間で視線を行き来させると、なるほど? という顔をした。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさい。今日は早いのね」
「はい。先週、先輩と休みを交代したので、その分早く上がらせてもらうことにしました」
テオはちょっと潰れたじゃがいもを拾い上げると、そっと手を引いて立たせてくれる。
「ポトフですか?」
「ええ。私がうまく作れる数少ない一つよ、知っているでしょう」
「ポトフはスープのようなものですし、シチューにだってなりますよ」
黙り込むと、テオは私がうまく小麦粉を扱えずにダマだらけになったシチューを思い出したのだろう。ああ……と声を漏らした顔を小さく睨むと、テオはくすくす笑いながらすみませんと謝った。
「随分お上手になられたと思いますよ」
「いつまで経ってもテオに追いつけないままだわ」
「一緒に料理すれば解決することです」
腕をまくって手を洗ったテオは、当然のように私の隣に立ち、出したままになっていた野菜を切っていく。軽やかに立つ包丁の音を聞くうちに、緩やかに気持ちが落ち着いていくのがわかった。
こうしてふたりで並んで料理をするのは、この国で生計を立てていくために私たちが結んだ小さな約束だ。
私たちの暮らしは、たった一つの大きな約束と、たくさんのごくささやかで他愛のない約束が降り積もった上にできている。
野菜を切ったり鍋を覗き込んだりしながら、今日のできごとを共有するのも、そうした何でもない約束の一つだった。
テオは王立騎士団、私は勤め先の商家で起こった小さな出来事をぽつぽつと交わして、日が過ぎれば忘れてしまいそうなことに笑ったり眉を顰めたりした。私の仕事はさして代わり映えのしないものだけれど、テオはいつだって真面目に耳を傾けて頷き、まるでひどく興味深い話を聞いているかのように質問を挟んでくれる。
「おじさまがいつものようにケーキをくださったから、食後にいただきましょう」
「ご存じでしたか? 面会日には、団長自らケーキを買いに行っているんです」
えっと驚くと、テオは内緒ですよと言って片目を瞑った。
「知らなかったわ。いつも私の好きなケーキと、季節のケーキを用意してくださるのよ」
「ちなみに、俺は食べ過ぎないようにと言いつけられてもいます」
「まあ、そうなの? 一人では食べきれないわ」
「はい。しっかりいただきます」
よかったと呟いた私は、箱の中のケーキを思い出す。
いつだってきちんと用意されているお茶菓子は、これまでにもおじさまから良くしてもらっていることを教えたけれど、今の話を聞くと重みが増した気がした。
くつくつと煮える鍋をかき混ぜていると、バゲットを切るテオの視線が頭を撫でた。
自分の髪に触れようとして、料理中であることを思い出してやめる。
「……もうわかる?」
「そうですね。明日は休みですし、染め直したほうがいいでしょう」
「年を重ねると髪が伸びるのも遅くなると言うけれど、本当かしら。すぐ伸びるんだから」
「ずっと俺が染めてさしあげますから、ご安心ください」
ずっと。瞬いた視線の先で、テオが微笑む。
切れ長の青い瞳がたわむと、どこか冷たい印象の整った顔立ちに春が滲んだように優しくなる。
私をあたたかく包み込むまなざしは、いつだってすぐそばにあった。もうすっかり当たり前になってしまったから、これからもずっとそうなのだと信じ切っていた。今日という日が来るまでは。
(テオは、自分に縁談が来ていると知らないの?)
おじさまに確認しておくべきだった。
そう思いながら見つめた先で柔らかに微笑むテオの顔には、何の虚勢も後ろめたさもない。
私の知るテオという人なら、既に縁談を承諾しているならずっとだなんて言葉は使わないだろう。それこそ、承諾する前に私に話してくれるに違いない。
彼という人について理解しているからこそ、私は心に浮かべた問いをうまく音に乗せることができなかった。
意気地なし。ぽつりと無言のうちに呟いた言葉を飲み込んで、私は曖昧に微笑んだ。
「味見する?」
「はい。……心配なさらなくとも、おいしいですよ」
「何か足さなくてもいいかしら」
テオは小さく笑んで、ご心配でしたらどうぞと私に味見をするよう促した。
……確かに、今日のポトフはいい出来だった。じゃがいもがかなり柔らかくなっているのはいつものことであったから、そっと器によそう。
たぶん、きっと。
私たちの間にある約束を一つひとつほどいていって、テオを解放したほうがいいのだろう。
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