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偽りのいとこ
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私には、王立騎士団で若くして出世している自慢の従兄がいる。
……ということになっているけれど、本当は血の繋がりはない。
八年前のあの日まで、私たちは互いの顔を知っている程度の仲だった。
私は、今はもう亡いあの国で最後の姫として産まれた。
長引く隣国との戦に国中が疲弊する中、とうとう城の門扉にまで敵国の兵が押し寄せたあの日。
日が落ちるのを待って側妃を連れて逃げたお父様は、きっとお母様と私のことなど忘れ去っていたのだろう。陛下が城を出られましたと告げに来た女官がいたことに驚いたほど、滅びの足音が近づく国で寵愛を失った王妃と末姫は放っておかれていたから。
「ヒルデ、大丈夫よ。お母様もすぐに後を追うから。一緒に逝きましょうね」
ほかに誰の影もない部屋で、私はぶるぶると震える手で首を絞められながら涙するお母様をぼんやり見上げていた。
(……ああ、死ぬんだわ。これまでも死んだように生きていたというのに)
不思議ねと思いながら瞼を閉ざしたとき、冷たい手はそっと解かれた。
「いけませんよ。お約束したはずです、最期は私にくださると」
混濁する意識をすくい上げた声は低く艶めいて、うっとりと甘い蜜のようだった。
ぞくりと感じた脅えを振り払うように咳き込んだ私は、大丈夫ですかという囁きに顔を上げる。
心配そうにこちらを見つめているのは、何度か見かけたことのある従騎士だった。
背中をさすられながらぼんやりと見遣った先には、すすり泣くお母様と、その肩を抱く騎士団長の姿がある。寄り添い合う二人の姿はあまりに自然で、あまりに遠く思われた。
そうして、私は騎士団長とお母様がかつて恋仲だったという噂話を思いだした。
騎士団長は私の様子が落ち着いたと見ると、城を襲撃している国とは反対側にある隣国に落ち延びる手筈を整えたと語った。
「姫様には、このセオフィラスとともにヘルヴェスまで向かっていただきたい。
息子には私の知ることを全て教え込みました。とはいえ、姫様には苦労を強いるでしょう。十分な支援ができず、申し訳ございません。お母上は、私が命に代えてもお守りいたします」
噛んで含めるように説く騎士団長の瞳は静かで、ぬめりを帯びて暗く輝いていたことを、今でも思い出せる。
隠し通路を抜けて城を包むように広がる森へ出ると、騎士団長は二手に分かれましょうと告げた。
こちらを振り返った騎士団長の背後には、宵闇に燃えさかる炎が赤々と浮かんでいて、そのいっそ穏やかすぎるまでに落ち着いた笑みを仄暗く浮かび上がらせていた。遠く、剣戟の音と人々の悲鳴がする。
大人しく頷いた私は、強い痛みに息を止めた。
ぎゅうっと左の手首を握っているのは、絞り出すようにごめんなさいとくり返すお母様の手だった。その細い身体に手首が折れてしまうのではないかと思うほどの力があるとは思えなくて、ひどく驚いたことを覚えている。
「ヒルデ、ヒルデ。ごめんなさい。弱いお母様を許してちょうだい……」
お母様は、喉から引き攣れたようなうめき声をこぼすと、涙を隠すように俯いた。
暗がりに紛れたその顔はひどく歪んでいて苦しげなのに、どこか安堵してもいた。そう、お母様はこの先自分が救われることをご存じだったのだろう。
幼い私はどんな言葉を選べばいいのか迷い、結局何も言えないままだった。
それでも。あの頃の私にとって恋とは遠いおとぎ話のようなものだったけれど、この震える手をほどいてさしあげなければならないことだけはわかったのだ。
大人たちと分かれて森に入った私は、ただひたすらにセオフィラスの後をついて歩いた。
城の背後を守る森は深く、足下はごつごつとして不安定で、甘やかされて育った私の身体が付いていけるはずもない。数刻もしないうちに足の裏には肉刺ができてはつぶれ、一歩足を踏み出すごとに泣きそうに痛んだ。
「姫、大丈夫ですか? よろしければ、俺の背にお乗りください」
「だいじょうぶ。歩けます」
あの夜、苦しい息を逃がすように見上げた月は白々と冴えていて、切れ切れにこぼれた息はずっと苦しいままで、繋いだ手だけが熱くて現実味を帯びていた。
セオフィラスは何度か声をかけてくれたけれど、私は彼に付いていくのが精一杯で、返事を考える余裕もなかった。
当然、私の身体は限界を迎えて、ふっつりと糸が切れたように気を失った。
次に目を覚ましたのは城を落ち延びてから二日後のことで、私の身体はセオフィラスの背に負ぶわれていた。
びくりと身じろぎした私を落ち着かせるように首を巡らせたセオフィラスは、ああよかったと微笑んだ。整った顔立ちには濃い隈と疲労が滲んでいて、夜通し歩かせてしまったことを私に教えた。
「ごめんなさい……。重かったでしょう」
「とんでもこざいません。姫がよく頑張ってくださったおかげで、ここまで来られました」
すでに王都を抜けたと聞いて、私は申し訳なさでいっぱいになってしまい、さりとて泣くこともできずにいた。足手まといの王女を疎んでもおかしくないのに、セオフィラスが優しく笑うばかりだったせいもある。
「ヘルヴェスまではどのくらいかかるの?」
「二月半ほどかかるでしょう。ご不便をおかけしますが、なるたけ乗合馬車は避けようと思います。子どもの旅人は目立ちますから」
セオフィラスは恐るべき体力の持ち主で、私のよき師でもあった。
騎士団長が支度した金子にはしばらく手を付けないと言って、森や林の中で狩りをして、私に食べられるものとそうでない野草を教えてくれた。川で魚を捕るのも上手くて、彼にできないことは一つもないように思えたものだった。反対に、私は教えられるまで何ごともうまくできない娘で、ひどく恥ずかしかったことを覚えている。
国境をめざす道中で、私たちはぎこちないながらも会話を交わすようになった。
協力しなければならなかったからだし、沈黙を持て余したせいでもある。
最初の話題は、名前のことだったように思う。
私たちの新しい名前は、ヘルヴェスの建国神話から取った。あちらでなじみのある名前がいいだろうと提案すると、テオは感心したように同意した。誰にも構われずに育った私は本だけが親しい友人であったから、少しは役に立てた気がして嬉しかったものだ。
初代の王に生涯変わらぬ忠誠を捧げた騎士テオフィルドと、初代の王の末娘セシリア。
それが、私たちの新しい名前の由来だった。
テオは小さな町でお湯で溶くと染髪剤になる髪粉を手に入れると、私の髪を丁寧に染めてくれた。
テオは終始申し訳なさそうだったけれど、私は新しい髪の色を新鮮に思い、お父様と同じ色の髪を早くに染めていたならお母様の気鬱も少なかったかしらと思っただけだった。
潰れた肉刺が硬くなるのをくり返していくうちに私の足は森に慣れ、次第に距離を稼げるようになっていく。草と土を踏み分けてゆくごとに、私は知らないものを見つけた。
一歩足を踏み出せば、その分新しい世界が目に入る。
朝露に濡れた花の蜜を分けてもらう楽しみ、吹き寄せた風が生んだ葉擦れの音が波のように連なっていくさざめき。耳のそばで小さな虫が羽を震わせる音、木の幹に空いた洞、獣たちの鋭い爪跡。罠にかかった獣を捌く前に捧げる祈り、間違えて口に入れた薬草の青苦い味。雨上がりの森から匂い立つ土のにおい、ぬかるんだ地面を踏んだときのぐんにゃりとした感触。つやつやと輝く果実を見つけたときの喜び。
私が手を引いて示すと、テオはああと頷いて、見知らぬ世界の断片に付けられた名前を教えてくれた。たまに彼の知らない植物や虫もあったけれど、それはごく稀だった。小さな村で手に入れてくれた古い携帯用の植物図鑑を一緒に覗き込んで、見つからなかったと顔を見合わせたこともあった。
テオは私が虫も獣も怖がらないのに不思議そうな顔をしていたけれど、危険がなければ興味の赴くままにさせてくれた。
そうして、王女ヒルデガルトは少しずつセシルとして生まれ直していった。
テオはしばしば、私に足跡の消し方や獣の皮の剥ぎ方を説きながら、ぽつりと今後の話を切り出すことがあった。
「いつか、国に戻りたいですか?」
私はわざと違う方角へ向かう足跡を付けながら、いずれ併呑されるだろう国を背負う器量はないと答えたように思う。
「それでは、ヘルヴェスの王太子に助けを求めましょうか?」
「あなた、婚約の話まで知っているの?」
私がヘルヴェスの本を読んでいたのは、確かに婚約の話が内々に打診されたことがきっかけだったけれど、ごく内々の話だ。
「よしてちょうだい。打診で終わっていた話よ。それに……」
せっかく、とついて出ようとした言葉を飲み込んで、私は後にしてきた城や王族として担うべき責任のことを考えようとした。
けれども。テオが差し出した手に右手を重ねて、力強く引いてもらいながら隆起した木の根を飛び越えて。気づけば、首を振っていた。
なぜって。そんな淡い期待に縋るよりも、地に足を付けて――ひっそりと生きたかった。
……ということになっているけれど、本当は血の繋がりはない。
八年前のあの日まで、私たちは互いの顔を知っている程度の仲だった。
私は、今はもう亡いあの国で最後の姫として産まれた。
長引く隣国との戦に国中が疲弊する中、とうとう城の門扉にまで敵国の兵が押し寄せたあの日。
日が落ちるのを待って側妃を連れて逃げたお父様は、きっとお母様と私のことなど忘れ去っていたのだろう。陛下が城を出られましたと告げに来た女官がいたことに驚いたほど、滅びの足音が近づく国で寵愛を失った王妃と末姫は放っておかれていたから。
「ヒルデ、大丈夫よ。お母様もすぐに後を追うから。一緒に逝きましょうね」
ほかに誰の影もない部屋で、私はぶるぶると震える手で首を絞められながら涙するお母様をぼんやり見上げていた。
(……ああ、死ぬんだわ。これまでも死んだように生きていたというのに)
不思議ねと思いながら瞼を閉ざしたとき、冷たい手はそっと解かれた。
「いけませんよ。お約束したはずです、最期は私にくださると」
混濁する意識をすくい上げた声は低く艶めいて、うっとりと甘い蜜のようだった。
ぞくりと感じた脅えを振り払うように咳き込んだ私は、大丈夫ですかという囁きに顔を上げる。
心配そうにこちらを見つめているのは、何度か見かけたことのある従騎士だった。
背中をさすられながらぼんやりと見遣った先には、すすり泣くお母様と、その肩を抱く騎士団長の姿がある。寄り添い合う二人の姿はあまりに自然で、あまりに遠く思われた。
そうして、私は騎士団長とお母様がかつて恋仲だったという噂話を思いだした。
騎士団長は私の様子が落ち着いたと見ると、城を襲撃している国とは反対側にある隣国に落ち延びる手筈を整えたと語った。
「姫様には、このセオフィラスとともにヘルヴェスまで向かっていただきたい。
息子には私の知ることを全て教え込みました。とはいえ、姫様には苦労を強いるでしょう。十分な支援ができず、申し訳ございません。お母上は、私が命に代えてもお守りいたします」
噛んで含めるように説く騎士団長の瞳は静かで、ぬめりを帯びて暗く輝いていたことを、今でも思い出せる。
隠し通路を抜けて城を包むように広がる森へ出ると、騎士団長は二手に分かれましょうと告げた。
こちらを振り返った騎士団長の背後には、宵闇に燃えさかる炎が赤々と浮かんでいて、そのいっそ穏やかすぎるまでに落ち着いた笑みを仄暗く浮かび上がらせていた。遠く、剣戟の音と人々の悲鳴がする。
大人しく頷いた私は、強い痛みに息を止めた。
ぎゅうっと左の手首を握っているのは、絞り出すようにごめんなさいとくり返すお母様の手だった。その細い身体に手首が折れてしまうのではないかと思うほどの力があるとは思えなくて、ひどく驚いたことを覚えている。
「ヒルデ、ヒルデ。ごめんなさい。弱いお母様を許してちょうだい……」
お母様は、喉から引き攣れたようなうめき声をこぼすと、涙を隠すように俯いた。
暗がりに紛れたその顔はひどく歪んでいて苦しげなのに、どこか安堵してもいた。そう、お母様はこの先自分が救われることをご存じだったのだろう。
幼い私はどんな言葉を選べばいいのか迷い、結局何も言えないままだった。
それでも。あの頃の私にとって恋とは遠いおとぎ話のようなものだったけれど、この震える手をほどいてさしあげなければならないことだけはわかったのだ。
大人たちと分かれて森に入った私は、ただひたすらにセオフィラスの後をついて歩いた。
城の背後を守る森は深く、足下はごつごつとして不安定で、甘やかされて育った私の身体が付いていけるはずもない。数刻もしないうちに足の裏には肉刺ができてはつぶれ、一歩足を踏み出すごとに泣きそうに痛んだ。
「姫、大丈夫ですか? よろしければ、俺の背にお乗りください」
「だいじょうぶ。歩けます」
あの夜、苦しい息を逃がすように見上げた月は白々と冴えていて、切れ切れにこぼれた息はずっと苦しいままで、繋いだ手だけが熱くて現実味を帯びていた。
セオフィラスは何度か声をかけてくれたけれど、私は彼に付いていくのが精一杯で、返事を考える余裕もなかった。
当然、私の身体は限界を迎えて、ふっつりと糸が切れたように気を失った。
次に目を覚ましたのは城を落ち延びてから二日後のことで、私の身体はセオフィラスの背に負ぶわれていた。
びくりと身じろぎした私を落ち着かせるように首を巡らせたセオフィラスは、ああよかったと微笑んだ。整った顔立ちには濃い隈と疲労が滲んでいて、夜通し歩かせてしまったことを私に教えた。
「ごめんなさい……。重かったでしょう」
「とんでもこざいません。姫がよく頑張ってくださったおかげで、ここまで来られました」
すでに王都を抜けたと聞いて、私は申し訳なさでいっぱいになってしまい、さりとて泣くこともできずにいた。足手まといの王女を疎んでもおかしくないのに、セオフィラスが優しく笑うばかりだったせいもある。
「ヘルヴェスまではどのくらいかかるの?」
「二月半ほどかかるでしょう。ご不便をおかけしますが、なるたけ乗合馬車は避けようと思います。子どもの旅人は目立ちますから」
セオフィラスは恐るべき体力の持ち主で、私のよき師でもあった。
騎士団長が支度した金子にはしばらく手を付けないと言って、森や林の中で狩りをして、私に食べられるものとそうでない野草を教えてくれた。川で魚を捕るのも上手くて、彼にできないことは一つもないように思えたものだった。反対に、私は教えられるまで何ごともうまくできない娘で、ひどく恥ずかしかったことを覚えている。
国境をめざす道中で、私たちはぎこちないながらも会話を交わすようになった。
協力しなければならなかったからだし、沈黙を持て余したせいでもある。
最初の話題は、名前のことだったように思う。
私たちの新しい名前は、ヘルヴェスの建国神話から取った。あちらでなじみのある名前がいいだろうと提案すると、テオは感心したように同意した。誰にも構われずに育った私は本だけが親しい友人であったから、少しは役に立てた気がして嬉しかったものだ。
初代の王に生涯変わらぬ忠誠を捧げた騎士テオフィルドと、初代の王の末娘セシリア。
それが、私たちの新しい名前の由来だった。
テオは小さな町でお湯で溶くと染髪剤になる髪粉を手に入れると、私の髪を丁寧に染めてくれた。
テオは終始申し訳なさそうだったけれど、私は新しい髪の色を新鮮に思い、お父様と同じ色の髪を早くに染めていたならお母様の気鬱も少なかったかしらと思っただけだった。
潰れた肉刺が硬くなるのをくり返していくうちに私の足は森に慣れ、次第に距離を稼げるようになっていく。草と土を踏み分けてゆくごとに、私は知らないものを見つけた。
一歩足を踏み出せば、その分新しい世界が目に入る。
朝露に濡れた花の蜜を分けてもらう楽しみ、吹き寄せた風が生んだ葉擦れの音が波のように連なっていくさざめき。耳のそばで小さな虫が羽を震わせる音、木の幹に空いた洞、獣たちの鋭い爪跡。罠にかかった獣を捌く前に捧げる祈り、間違えて口に入れた薬草の青苦い味。雨上がりの森から匂い立つ土のにおい、ぬかるんだ地面を踏んだときのぐんにゃりとした感触。つやつやと輝く果実を見つけたときの喜び。
私が手を引いて示すと、テオはああと頷いて、見知らぬ世界の断片に付けられた名前を教えてくれた。たまに彼の知らない植物や虫もあったけれど、それはごく稀だった。小さな村で手に入れてくれた古い携帯用の植物図鑑を一緒に覗き込んで、見つからなかったと顔を見合わせたこともあった。
テオは私が虫も獣も怖がらないのに不思議そうな顔をしていたけれど、危険がなければ興味の赴くままにさせてくれた。
そうして、王女ヒルデガルトは少しずつセシルとして生まれ直していった。
テオはしばしば、私に足跡の消し方や獣の皮の剥ぎ方を説きながら、ぽつりと今後の話を切り出すことがあった。
「いつか、国に戻りたいですか?」
私はわざと違う方角へ向かう足跡を付けながら、いずれ併呑されるだろう国を背負う器量はないと答えたように思う。
「それでは、ヘルヴェスの王太子に助けを求めましょうか?」
「あなた、婚約の話まで知っているの?」
私がヘルヴェスの本を読んでいたのは、確かに婚約の話が内々に打診されたことがきっかけだったけれど、ごく内々の話だ。
「よしてちょうだい。打診で終わっていた話よ。それに……」
せっかく、とついて出ようとした言葉を飲み込んで、私は後にしてきた城や王族として担うべき責任のことを考えようとした。
けれども。テオが差し出した手に右手を重ねて、力強く引いてもらいながら隆起した木の根を飛び越えて。気づけば、首を振っていた。
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