私の騎士、最後にひとつだけ約束してください。

ななな

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噂と検問

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 恐れていた追っ手の影はどこにもなく、私たちの旅路は至極平穏だった。
 戦で国は荒れていたけれど、攻め込んできた隣国と反対側にある領地は戦火から遠いせいもあって、王都から逃れてきた子どもたちは気の毒がられこそすれ、とりたてて酷い目には遭わなかったように思う。

 国境近くの街で、私は強いて考えないようにしていた母の消息を知った。
 市場で獣の皮や薬草を売り、当座の食料を買ったとき、こんな噂話が耳に滑り込んできたのだった。

 ――王妃様の話を聞いたか? お気の毒に。敵国の追っ手に捕らえられそうになって、騎士団長に胸を刺し貫かれたそうだ。

 ――後を追った騎士団長の横恋慕だったんだろう? 生き延びてさえいれば、王妃様も捕虜で済んだだろうに。現に、陛下も捕まったが命は落としてらっしゃらない。

 ふっと息を止めた私は、顔を深く隠す外套の影でテオを見上げた。
 彼の耳にも噂話をする声は届いていただろうに、朗らかに笑う横顔は何ら動揺していない。それどころか、肉屋のおかみさんにお世辞を言っておまけを付けてもらう余裕すらある。
 テオは繋いでいた手を引くと、久し振りに甘いものでも食べましょうかと微笑んだ。

 私が聞きたいことを聞けたのは、国境近くの森に入ってからのことだった。

「テオは、とうに知っていたのね」
「はい。そうなるだろうと聞かされていましたから」

 テオは私の手を丁寧に水で洗いながら、静かに笑んだ。

「父と姫のお母上は、昔結婚の約束をしていた仲だったそうです。婚約が調おうとしたときに、陛下がお母上を見初められたと聞きました。程なくして、父も結婚しました。
 俺たち兄弟はきちんと可愛がられていましたよ。ただ……」

 テオは苦く笑って、焼き菓子を差し出した。もっと早く買ってさしあげるべきでしたね、と。

「あの夜、母は王妃様のもとへ行くなら自分を殺してから行けと言いました。父は、母が望むようにしてやりました。ですから、姫のもとへ伺ったときには、とうにわかりきっていたのです」

 ヘルヴェスに来て、あの頃のテオの年を通り過ぎたとき。私は、折に触れてこの会話を記憶から取り出して振り返ったものだった。彼と同じ振る舞いが、いったいどれだけの人にできるだろう? と。

「黙っていたことをお詫び申し上げます。申し訳ございません。私は父がどうするのかを知っていましたが、国境を越えてからお伝えしようと思っておりました」
「教えてくれていたとしても、何も変わらなかったはずよ。それに、私も知っていたわ」

 お母様は幸せそうだったもの。
 ぽつりと呟きながら、薄情な娘だろうかと思ったのが伝わったのかもしれない。テオは静かに私の顔を覆っていた外衣を外すと、ぎこちない手つきで頭を撫でてくれた。

 きっと、彼は知らないだろう。
 私は大切にされてきた王女ではなかったし、父を恨んでいた母は気鬱の激しい日は私を視界に入れることさえしなかった。
 私にとって、必要がなければ手を繋ぐ以上に触れてこないテオの不器用な労りは、久し振りに口にする焼き菓子以上に甘やかで得がたいものだった。

 ……だからこそ、私は彼に問うておかなければいけなかった。

「あなただけなら、もっと早くヘルヴェスへ行けたわ。本当なら、あなたには私の面倒を見る義理もない。足手まといの王女のお守りが嫌になっているのじゃない?」

 ずっと自覚していながらも言えなかったことを訊ねると、テオは小さく目を見開いて、姫は賢いのですねと呟いた。子ども扱いされたことを悟った私が眉を顰めたのに笑って、テオはそうですね……と少し考える。

「俺は戦にこそ出ていませんが、父の息子であることで顔が知れています。王都に戻れば面倒に巻き込まれるでしょうし、もう帰る家もありません。恐れながら、姫と一緒なのです」

 肩を竦めたテオは、きっと私のためにそんな言い方をしてくれたのだろう。
 それでも、私の心は安堵した。まだ捨てられないんだわ、と。

「ヘルヴェスの銀行には、父が叶うはずもない逃避行を夢見て溜め込んだ金があります。銀行の財産にするよりも、姫と俺で使ってしまったほうがずっとよくはありませんか?」
「うん……そうね、そうしましょう。テオ、一緒に来てくれてありがとう」

 はいと頷いたテオも私も、まだ幼い子どもだった。
 それまでの道中があまりに穏やかなものだったから、国境を目の前にして気が緩んでしまっていたのだろう。

 国境の検問所に騎士がずらりと居並び、緑の瞳の娘を探していると知ったとき、私は自分がこのまま何事もなく国を出られると思い込んでいたことに気づかされた。

 外衣の下で後ろに並んでいた旅人の子どもと目が合って、足下が崩れ落ちるような脅えがひと息に襲い来る。ひくりと私の喉が鳴ったのと、子どもが親の手を引いたのはほとんど同時だった。テオは素早く私を抱え上げると、驚く人々の間を縫って駆け出した。

 初めて身に迫った危険を知った私は、追っ手を撒きながら夜に紛れて森の奥深くに分け入ってもなお、テオの身体に縋って震えることしかできないでいた。

「検問所にいたのは、ヘルヴェスの騎士のようでした。噂によると、敵国は内部政争で我が国の対応を暫時保留にしているそうで、敵国の手はここまで伸びていません。そのせいで、ヘルヴェスへ逃れる民もそう多くなさそうです。……もしかすると、ヘルヴェスは姫を保護したいと考えているのかもしれません」

 戦に出た母違いの兄たちが、お父様と同じく敵国の捕虜となった噂は耳にしていた。この国で行方知れずの王族は、誰にも顧みられなかった末姫の私だけだということになる。
 ヘルヴェスが末姫を探している理由が、一度は王太子と婚約話が浮上したからだと思えるほど、私は夢見がちな娘ではなかった。でも……。

 ――私がヘルヴェスに保護されたほうが、テオは楽になる。

「その方が、収まるところに収まるものかしら」

 物心ついた頃から望まれることしか吐き出してこなかった唇は、慣れたように心とは裏腹のことを口にする。そう、私は生まれてからこの方、ずっといい子でいなければならなかった。

「推測に過ぎない話ですし、丁重な扱いが保障されているわけではありません」

 保護された王女に待っているのは、間違いなく婚姻だろう。
 ただし、私は敗戦国の王女で、取り立てて大切にされていたわけではない上に、母は子爵家の出であるから政治的な利用価値は薄い。捕虜になっている父や義兄たちよりは王女の方が扱いやすいとはいえ、国を挟んだ向こうにある敵国と戦をする労力を進んで買うだろうか?

「私……」

 唇を噛んで俯くと、苛立ちとも悲しみとも言い表せない感情がふつりと波打った。

 私は、自分を大切に扱ってくれる人がいることの幸いを知ってしまった。
 どんなに土で汚れて将来が不安定だったとしても、望まれていることばを吐き出すだけのあの頃には戻れない。

 もう、城の一室で息を潜めるように暮らしていたお人形はどこにもいなかった。
 
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