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少し先の約束をひとつ

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「ヘルヴェスにヒルデガルトを売ろうと思うの」

 私がそう切り出すと、テオは小さく瞬いて私を見つめる。
 心配そうなまなざしに包まれるこそばゆさに、つい唇が緩んだ。それで、テオも眉を下げて笑った。

「念のためお訊ねしますが、それは形式上の話ですよね? セシル自身の話ではなく」
「ええ。だって、私に王太子妃は無理よ。いまだって、申請した有給が終わった後のことが気がかりでならないのに。職を失わなかったとしても、有給を七日も消費しちゃったのよ?」

 七日よ? と肩をすくめると、テオは確かに大ごとですねと言ってくすりと笑った。私が好きな、喉の真ん中で優しく転がすような笑い声だった。

「ヘルヴェス王と王太子、どちらかに――あるいは両方に、ヒルデガルトをできるだけ高く売りつけたいの。見込みがあるのはヘルヴェス王だけれど、あの方は冷徹な為政者だから、要求も大きいでしょう。ヒルデガルトの価値はそう高くはないから」

 自分でも、ヒルデガルトの利用価値の低さは理解しているつもりだ。唯一の利点である婚姻を退けて交渉の席に立つのは、難しいだろう。

 ……たとえ私自身を守れなくとも、ヘルヴェス王の脅しが告げた道だけは避けてみせる。騎士の安全を守るのも主の役目だから。

「直接ヘルヴェス王と関わりのある立場ではありませんが、交渉相手として厄介な相手だと思います。……姫の価値については、いいえと申し上げたいところですが」

 テオが、ヒルデガルトの立場の弱さを理解していないはずがない。ただ、彼女を――かつての私を大事にしてくれているのだ。
 私が笑うと、テオは大真面目に本心ですよと言う。その不服そうな様子に、私の中に残っているヒルデガルトだった時分のさみしさが埋められていくのを感じた。

「……不思議と、不可能ではないと思える自分がいるのよ。これだけ待たされているのは、王太子が私との縁談に乗り気ではないからだと思うの。都合の良すぎる解釈かしら」
「王太子殿下の人となりは存じ上げませんが、少しだけ知っていることがあるんです。そして、きっとセシルは俺の情報を役立てる手立てをご存じですよ」

 どういうことかしらと見つめた先で、テオはにこりと笑んだ。

 それからしばし、私たちは手短に今後のことを打ち合わせた。
 話がひと段落したとき、まるで見計らったかのように扉が叩かれた。
 どれだけ時間が経ったのかはわからなかったけれど、よく放っておいてもらえたものだと思う。

「そろそろ、あなたを返さなくてはね」
「はい。名残惜しいですが、今は行きます」

 きっと、さみしそうな顔をしてしまっていたのだろう。立ち上がったテオの手のひらが、私の頭を静かに撫でる。ぎこちなさを留めたままの仕種に、あと少しだけ……と目を伏せたとき、視界に硬く握り込まれた拳が見えた。

「その。ご褒美を決めておきませんか?」
「ご褒美?」
「はい。何でもいいですから、家に帰ったらする何かしらの約束をしておきましょう。俺とあなたが、少しだけ先の日を待ち遠しく思えるように」

 具体的なことを思い浮かべるよりも先に、心が囁いた。どうしてこの人は、私の心を大切にするのが上手なのだろう、と。テオはときどき、私以上に私のことを知っているような気がしてならない。

「セシル? 何でも良いですよ。やりたいこととか、食べたいものとか。欲しいものでもいいですね」

 一番欲しいものは何なのかわかっていたけれど、この優しい騎士ひとにいま願うことではなかった。

 家に帰ったら、何をしたいだろう。いつもの生活に戻れるのなら、なんだっていい。
 約束をするならば、ふたりで一緒にできることがいいと私は思った。

「プディング。プディングを作りたいわ。ふわふわの方ではなくて、カラメルがかかったプディングよ」

 カスタードプディングは、ふたりで暮らすようになって何度か作ってきたおやつだ。
 少し前、こっそり一人で作ってテオ驚かそうとしたのだけど、結局カラメルを焦がしてしまったことを思い出す。慌てて窓を開けて匂いを逃がそうとしたけれど、テオにはすぐにばれてしまって……。近いうちに再挑戦したいと思いながらも、何となく間が空いていた。

 どこか緊張して見えたテオの表情が緩んで、彼もまた同じときのことを思い出していたことを教える。

「いいですね。材料を揃えておきます」

 うんと頷いたとき、ふたたび扉が叩かれる。テオは短く返事をして、私を見つめた。いつだって私の背筋を伸ばさせる瞳が、懇願するように、祈るように私を写しとる。

「約束ですよ。どうか、忘れないでくださいね。どんなに味方がいないと思っても、俺だけはセシルの力になれる存在です。一人だと思ったら、俺を思い出してください。つらかったら、逃げ出したっていいんです。たとえ世界中から指をさされようとも、俺だけでは御側におります」

 そんなふうに優しいことばを投げかけられたら、どうしたって心が喜んでしまう。何もかもをかなぐり捨てて、ずっと側にいてほしいとしがみついてしまいそうになる。……たぶん、そうしたのなら、テオは笑って受け容れてくれるのだろう。

 こんなとき、いったいどんな表情を作ればいいのかわからない。気づいたら、そっと離れた手を引き留めていた。両手で包んだ手のひらは、少し硬い。あたたかさをぎゅっと握り込むようにして、ほとんど唇だけで囁いた。

「あなたの優しさを、きっと忘れないわ。ありがとう……。もう大丈夫だから、行って」

 緩めた手の間から温もりがそっと抜けていき、扉が閉まるまで、私は俯いて目を閉じていた。
 一度泣いてしまったせいだろう、離れていく背中を目で追っていれば、また涙が溢れてしまいそうだったから。


 翌る日、王太子との見合いを控えた朝のこと。私は一人の客人を迎えた。
 昨夜、泣き腫らした瞼を冷やさねばと大騒ぎした女官たちは、私がはじめて告げた要望にすぐに頷き、さらに客人の名を聞くと手を打ち合わせて喜んだ。いまも、朝と昼の間にしては豪勢なお茶請けの説明をする女官たちはうきうきとした様子を隠さない。

 女官たちが辞すと、私はテーブルに視線を落とす。
 商家でも見かけたことのある、当世一と評判の図案画家による茶器は、きっと城に納めるためだけに作られたものだろう。こぼれんばかりに咲いた白薔薇は亡き王妃が愛したことで知られる品種で、砂糖漬けにされた花が飾られたケーキを繊細に引き立てる。一つとして同じものはないチョコレート、食べやすい大きさのサブレ。揃いの図案の小皿に取り分けられたお茶菓子には、女官たちの心遣いの表れだった。

「女官たちは、随分お嬢様のことがお好きのようですね」

 お茶をすすめると、バイルシュミット公爵令嬢クラウディアは眉を下げる。
 クラウディアは今日も綺麗に粧っているが、その頬は心なしか強ばって見えた。

「わたくしは亡き王妃様に可愛がっていただいていたものですから、彼女たちとは昔なじみなのです。
 ……どうぞ、クラウディアとお呼びくださいませ。知らなかったとはいえ、初めてお会いしたときには不躾なことを申しました。王女殿下への無礼をお詫び申し上げます」

 短く初対面の時の非礼を詫びるクラウディアに、私は頷くことで応えた。

「では、クラウディア。私にも気楽に話して。私の騎士は、あなたに何と説明したかしら」
「あなたが彼の主であり、亡き国の王女でいらっしゃること。それから、あなたが王太子殿下とお見合いをなさる前に、わたくしにお話があると」

 いくら婿候補とはいえ、バイルシュミット公爵家が夜の訪問を許すかどうかは賭けだったけれど、テオは頼みごとをきちんとやり遂げてくれたらしい。
 彼から聞いた話を思い出しながら、花の形をした砂糖をお茶に入れる。色づけされた小さな砂糖はすぐに輪郭を失い、紅茶の海に溶けた。

「私の騎士はクラウディアが訪ねてきたとき、視線を感じたのですって。最初は偶然かと思ったものの、二度同じことがくり返されたものだから驚いたそうよ。だって、視線の主は王太子殿下だったから。あなたたちは恋仲なの?」

 聡明なクラウディアは、笑みのまま動揺を滲ませることはない。ただ、長い睫毛の下にある瞳は、逡巡と警戒の間で揺れ動いていた。
 お茶をひと口飲んできちんと甘さを感じることに安堵していると、クラウディアが意を決したように私を見据える。艶やかな唇が開かれた瞬間を見計らって、私は囁いた。彼女のことばを奪うように。

「恋を諦めろだなんて、物語の悪役めいた意地悪を言うために呼び出したのではないの。だってそんなの、業腹でしょう?」

 そこでようやく、クラウディアは初めて会ったときのように素の心をあらわにした。驚きが醒めると、クラウディアの華やかな顔立ちがゆるゆると苦笑を浮かべる。

「……わたくしたち、なんだか前と同じ会話をしているわね?」
「あなたを傷つけることばを言わなくて済んで、良かったと思っているのよ」

 微かにため息して肩を落としたクラウディアに、私はケーキをすすめる。
 思い出したかのように視線を落としたクラウディアは、淑女にしては大きすぎるひと口分のケーキを至極上品な所作で口に入れた。ケーキを一切れ食べ終える間、私たちは黙ったままでいた。

 そうして、私とクラウディアは初めて会ったときにした話と少し似ていて、でも違う話をしはじめる。

「わたくしは、小さな頃から交流のあった王太子殿下が好きだった。父に何度もお願いして、ようやく婚約が結ばれたときはうれしかったわ。でも、すぐに反故になったのは知っての通りよ。まさか、それからすぐに結ばれるはずだった縁談相手が行方知れずになるとは想像してもみなかったけれど」
「実はヘルヴェスで、移民として暮らしていたのだけれどね?」

 クラウディアは小さく笑んで、それこそ物語のようで信じられない話だと首を振った。
 短く故国からの道行きについて語ると、クラウディアは顔を土で汚したというくだりでまあと目を瞠り、おじさまとの出会いのくだりではなるほどと眉を寄せて頷いてみせる。

「わたくしの父は、怒りを忘れるということをしない人なの。陛下は再三の申し入れにもかかわらず婚約を受け容れなかった父に呆れて、政治的に有利な他国の姫との婚約を手配なさった。それで、王妃様はわたくしを哀れんでくださって……ずいぶん可愛がっていただいたわ。
 わたくしはじめじめと初恋を引きずって、王妃様に招かれたときに運良く遠目に王太子殿下を見かけることで心を慰めていた。ご成婚のときが来たら、諦めて婿を取ろうと決めてね。少々年嵩でも、公爵家の婿に収まりたい貴族は多いもの。でも……」

 クラウディアが言いよどんだ先を、聞かずとも私は知っている。
 王太子の婚約者が早逝したことで、ヘルヴェス王は焦っただろう。国一番の嫁ぎ先の席が既に埋まっていることで、既に王太子と釣り合いの取れる貴族令嬢は概ね結婚している。ヘルヴェス王がこれから成人を迎える貴族令嬢に王妃教育を施すよりも、クラウディアを望んだのも当然だろう。亡き妻が可愛がっていたというなら、尚更。

 クラウディアはつと視線を逸らして、胸の中に隠している小箱から思い出を取り出すように囁いた。

「……先の御不幸の後、あの人が一度だけ、わたくしに会いに来たことがある。もう陛下の言うままに婚約を受けることはしない、それだけの力を養った。もう一度自分と婚約してほしいと。だから、覚悟を決めたの」

 とはいえ、彼女は昨夜まで行方不明の王女が現れたことは知らなかったのだろう。
 先程の警戒した様子を見るに、色々な可能性を考えていたに違いない。それこそ、物語のようにお決まりの展開も。

 ヘルヴェス王は抜け目のない人だけれど、ある意味では親切だった。ヘルヴェス王の言葉選びから察するに、王太子妃は必ずしも私でなくとも構わないはずだ。
 要は王太子と釣り合いが取れる身分と年齢の、子どもが産める娘なら誰でも良い。

(今頃ヘルヴェス王は、宰相に揺さぶりをかけているはず。早く娘を差し出さなければ、手にできるはずだった栄誉をみすみす逃してしまうぞなどと言って)

 ――つまり、ヒルデガルトは代わりをさしだせば縁談から逃れられる。

 テオから王太子がクラウディアに恋をしているようだという話を聞かなかったら、クラウディアの警戒を解くのにもっと時間がかかってしまっただろう。

「どうしてあなたのような方が未婚のままでいるのだろうと、疑問だったの。でも、恋のためだというなら納得できる。あなたはもう少し時間がかかると言っていたけれど、私たちが取引をすれば、これ以上時間をかけることもなくなるかもしれないわ」
「わたくしとあなたの立場を入れ替えようと言うのね」
「そうよ。そうすれば、あなたも私も恋を諦めなくて済む。さっそく条件を出し合いましょう」

 ぱちりと手を合わせると、クラウディアはまあと呟いて、きりりと眉を立てた。

「やっぱり、あなたは従兄の――自分の騎士のことが好きなんじゃないの!」
「あなたたちとは違って、片想いだもの。この件が終わったら言おうと思っているけれど……」

 ひと段落するまでは強いて考えないようにしているけれど、私とテオは、たぶん今のままでは関係を変えていけないだろう。それに、私だけが変えたいと思ってどうにかなることではない。

 伏せていた瞼を上げると、クラウディアの大きな瞳が私をまじまじと見つめていた。
 その、まっすぐなまなざしを受けて。私は、ふと首を傾げる。今日も隙無く粧ったクラウディアを見つめるうちに、なんとはなしに通り過ぎながらも気になっていた違和感を探しあてた私は、提案をひとつした。

「ねえ、クラウディア。申し訳ないのだけど、着替えてくれないかしら?」
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