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愛憎に疲れた女と絶望のなかにいる男

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 力強く波が打ちよせ引いていく。

 波打ち際に立ちつくしている男の足下に満ちる潮。

 遠くを見つめたまま動かない男の涙。

 波のように押し寄せては引いていくピアノの音が、絶望のなかにいたヘンリー・ライトの姿をエレノアに思い出させる。

 手の怪我により再起不能といわれたピアニストのヘンリー・ライトは見事に復活し、復活してから三年、これまで以上に音楽の神に愛されたピアニストという名をほしいままにしていた。

 ヘンリーの奏でるピアノの音は、エレノアが最後に聞いた時よりもさらに深い感情をのせている。

 怪我から復活したヘンリーはただ復活したのではなく、より神がかった演奏をするようになっていた。彼の復活に多くの人が熱狂した。

 ヘンリーが演奏したアンコールの曲は、エレノアがピアノを聞いて初めて涙を流した「波の曲」だった。

 ヘンリーの名がまだ多くの人に知られていなかった頃に、エレノアは知り合いにつれられヘンリーの演奏会で彼のピアノを聞いた。

 エレノアはヘンリー・ライトというピアニストについてまったくしらず、演奏会にいく前に音楽の神に愛されたピアニストだと聞かされただけでなく、いかに演奏会の席をとるのが大変だったかを延々ときかされた。

 知り合いは同行者が演奏会の当日に体調をくずしたことからエレノアに声をかけたが、それがどれほど幸運だったかヘンリーの演奏を聴けばわかるだろうといわれた。

 ヘンリーがその演奏会で奏でたアンコールの曲は、ピアノの音が浜辺で波の音を聞いているかのような気分にさせてくれるものだった。

 潮が満ち引きするかのような音に感情がゆすぶられる。波が岩に激しくぶつかるような音が感情を大きくゆらし、体をおさえていなければその感情が体の外に飛びだしてしまうのではと思うほど感情が体中をかけめぐった。

 手にしていたはずの愛がもろかったこと。どうすることもできない状況に身じろぐこともできずにいる自分への苛立ち。行き所のない感情が波の音にゆられ行きつく先を求める。

 大きな拍手の音とブラボーと叫ぶ声がサロン中からあがり我にかえった。エレノアだけでなく隣に座っていた知り合いも目にハンカチをあてていた。

 その時からエレノアが勝手に「波の曲」と名付けたその曲と、ヘンリー・ライトというピアニストが特別なものになった。

 ヘンリーは神がかった演奏をする若き天才ピアニストとしてあっという間に名声をえた。知り合いがいった通りヘンリーの演奏会の席をとるのはむずかしかった。

 エレノアの実家や婚家は裕福な商家ではあったが、ヘンリーを後援しているような豪商や貴族と直接取引するような格ではない。必死に伝手の伝手をたより、エレノアは何とか再度演奏会にもぐりこむことができた。

 演奏会でヘンリーについて話している人達から、波の曲を作曲したのはヘンリーでアンコールにひくことが多いとしった。

 波の曲だけでなくヘンリーが演奏する曲は頭に情景がうかび感情を大いにゆらす。ヘンリーのピアノは音が感情に直接はたらきかけた。

 時の人という扱いをされるようになったヘンリーは、ピアノだけでなくヘンリーの恋の噂で名前が取り沙汰されるようになった。

 エレノアはヘンリーの奏でるピアノに心酔していただけで、十歳年下のヘンリーの恋のたわむれには興味がなかった。

 その状況が変わったのはヘンリーの恋のたわむれが刃傷沙汰をひきおこし、ヘンリーが手を怪我したためだった。

 左手の筋が切られただけでなく手首を骨折し、医師より怪我が治っても手は以前と同じように動かないだろうと診断された。誰もがヘンリーは再起不能だとささやいた。

 ――彼のピアノをもう一度聞きたい。

 再起不能というが何かしら治療法があるのではとエレノアは願った。

 多くの人がヘンリーが怪我から復活することを祈ったが、ヘンリーに関して聞こえてきたのは王都から姿を消したというものだった。それを最後にヘンリーについて噂のひとつも聞くことはなくなった。

 ヘンリーの名を聞かなくなった頃、エレノアは夫を病で亡くし傷心をいやすため海辺の町に滞在することになった。

 両家の商売をひろげるための結婚だったが、エレノアは夫を愛し、そして夫もエレノアを愛してくれた。しかし夫は死病にかかる二年前にエレノアではない女性を愛するようになった。

 夫はエレノアのことを嫌いになったわけではないが、エレノアよりも愛する人に出会ってしまったと告げた。

 夫はエレノアに冷たい態度はとらなかったが、誰の目から見ても二人の関係が変わったのはあきらかだった。二人は夫の一族が経営する商会を支え合う同士として友好的な関係を保った。

 しかし夫は自分が死病におかされていることを知ると、エレノアではなく愛人に看取ってもらうことを選んだ。

「すまない、子ができた。彼女の側をはなれられない」

 その言葉はエレノアを打ちのめした。

 夫との子を流行病で失い、その後妊娠しても子がながれてしまったエレノアにとって、愛人が夫との子をみごもったこと、そして夫が愛人と子のそばにいることを選んだことは、自分の存在を否定されたも同然だった。

 もし子が亡くならなければ、新たな子がうまれていれば――。三度目の流産の時に医師から今後妊娠するのはむずかしいかもしれないといわれた。

「仕方ないよ。さいわい親戚に優秀な子が多いから一人養子にもらおう」
そのように言ってくれた夫だったが、やはり自分の子が欲しかったのだろう。

 妻が愛人宅に夫の見舞いにいくという屈辱的な状況になったが、夫の命には限りがあると自分の感情をなだめエレノアは夫を見舞いつづけた。

 夫は子が生まれる前に愛人の手をにぎり息をひきとった。夫は突然の発作におそわれ亡くなったため、エレノアは夫の死に目にあえなかった。

 夫が愛人と出会ってから二人の関係はすっかり変わってしまったが、エレノアは夫を愛していた。ずっと側にいたかった。夫を看取りたかった。しかし夫はそれを望まなかった。

 夫の病を知ってからさまざまなことを覚悟しあきらめてきたが、それでも実際に夫をうしなった喪失感は大きかった。

 エレノアは夫婦のことを両親にくわしく話したことはないが、夫が自宅ではない場所で療養し息をひきとったことで娘がおかれた事情を察したのだろう。

 夫の死を悼むエレノアに両親が環境をかえるため海辺の町に行くことをすすめた。

 海辺の小さな家にはピアノがおかれていた。子供の時からピアノをならい婚家にピアノを持ちこんだが、結婚してからは日々の生活に追われたまにひく程度だった。

 エレノアは久しぶりにピアノをひく生活を楽しもうと気持ちが少し浮きたつのをかんじた。

 エレノアは海辺の町にきてからピアノをひくだけでなく、浜辺を散歩するようになった。

 浜辺を歩くのはエレノアが思っていた以上に心をいやした。夫のことを考えるとまだ涙がこぼれるが、二人で穏やかな関係を築いていた頃のことを思い出し夫をしのんだ。

 エレノアがいつものように浜辺を歩いていると、ぬれるのもかまわずじっと波打ち際に立っている男がみえた。

 身じろぎもせず、ただ立ちつくしている姿に目が離せなくなった。

 潮がみち靴がぬれはじめたが男は動かずぬれる部分がふえている。しかし男は遠くにある何かを凝視しているかのようにまったく動かない。

 日の光が暑いとかんじるほど体にそそがれているが、まだ春先で水は冷たいはずだ。男がどれだけの時間あの場所にいるのか分からないが波の高さが膝にとどこうとしている。

「待って、アダム!」
子供の声がしたかと思うと犬が浜辺を嬉しそうに走っているのがみえた。

「アダム、戻れ!」
女の子と一緒に歩いていた男性が犬に命令すると、犬は素直に二人のもとへと戻っていく。

 彼らを見るともなくぼんやり眺めている間にすっかりそれてしまった意識を波際に立っていた男にもどすと、その男はエレノアにむかって歩いていた。

 まるでエレノアが目に入っていないかのように男はエレノアのすぐ横を通り過ぎていく。

 男は何かに意識をうばわれているかのように周りに一切目をむけない。そして自分の目から涙が流れていることにも気付いていないようだった。

 エレノアは振り返り男の姿を目で追いながら、このまま男を一人にしてはいけないような気がし後をおった。

 男はわきめもふらず裕福な商人の隠れ家といった風情の家へ入っていった。町から少し離れた場所で、そこに家があると知らなければ足を向けることのない場所だった。

 エレノアはその日から男がまた浜辺にいるかもと、彼を見かけた日と同じ時間に散歩するようになったが彼の姿をみかけることはなかった。

 人生に絶望したかのような彼の姿が気になった。万が一という気持ちが消えずエレノアは男の家へむかった。

 何かしら彼の無事を知ることができたらと衝動的に家まできたが、いざ彼の家の前にたつと、名前もしらなければ知り合いでもない相手を、何といって訪問すればよいのか分からなかった。

 まさか勝手に敷地内にはいりこむわけにもいかない。エレノアは自分の考えなしの行動をわらった。

 帰ろうとした時にエレノアの耳にピアノの音が聞こえた。練習しているようで右手の部分だけが聞こえる。難易度のたかい曲だがよどむことなくひかれ、左手の部分がないのが残念だった。

 エレノアはピアノの音を聞きながら、突然、あの男がヘンリー・ライトであることに気がついた。どこかで会ったことがあるような気がしていたのはそのせいだったのかと納得がいった。

 ヘンリーは長らく身なりを構っていないのだろう。髪の毛やひげがのび放題ですぐに分からなかった。

 多くのピアニストを絶望におとしいれたといわれるほどの才能を持ったヘンリーだ。怪我が治っても以前のようにピアノをひくことは出来ないといわれた衝撃は、凡人に計り知ることはできないものだったはずだ。

 エレノアは絶望しながらもピアノをひいているヘンリーに胸をつかれた。ヘンリーにとってピアノをひくことは生きることと同じ意味なのだろう。ピアノをひかないという文字はきっとヘンリーにはないのではと思えた。

 ヘンリーのピアノを聞きたい。世の中には再起不能といわれ復活した人達がいる。不可能を可能にした不屈の人達がいる。

 ヘンリーの怪我の具合がどのようなものか分からないが、ヘンリーのピアノの音を再びこの世界に響かせてほしいとエレノアは強く思う。

 エレノアは自分に何かできることはないだろうかと考え始めた。友人でもなければ知り合いでさえない。

 ヘンリーと何のゆかりもない赤の他人にできることは祈ることぐらいだが、それでもエレノアは何かできないかと考えることをやめられなかった。

 エレノアがヘンリーと再会したのは町で買い物をしている時だった。まさかヘンリーが町で普通に買い物をするとは思っていなかったため、思わず「あっ、ヘンリー」と声をだしてしまいヘンリーと目があった。

「ごめんなさい、不躾に」エレノアがあやまっている時に、ヘンリーが持っていた袋を落とした。エレノアが中身を拾ってわたそうとしたところ、「手がうまく動かないからそれを代わりに持ってほしい」といって歩きだした。

 ヘンリーの後ろについてヘンリーの家に到着すると使用人が出迎えた。その使用人をまるで存在しないかのようにヘンリーは通り過ぎ「こっちに置いてほしい」とエレノアを家の奥へとみちびく。

 荷物をおいて帰ろうとしたエレノアに「お礼にお茶でも飲んでいってほしい」とヘンリーがひきとめた。

 とくに何を話すということもなく出された茶をのんだあと、ヘンリーが「明日、時間があればまた茶をのもう」といってエレノアを送りだした。

 エレノアはヘンリーが知り合いの誰かと勘違いしているのだろうと間違いを正そうかと思ったが、これまで知り合うことができなかったヘンリーと接触できたのだ。彼の勘違いを利用することにした。

 エレノアとヘンリーは週に一度茶を飲むようになり、そして浜辺をともに散歩するようになった。

 ヘンリーはエレノアを知り合いと勘違いしたわけではなく、人寂しくなっていた時にたまたまエレノアに名をよばれ、ちょうどよいと気まぐれでエレノアとかかわったようだった。

 エレノアはどのような理由であろうと、ヘンリーと一緒にいられることを素直によろこんだ。

 エレノアがヘンリーと浜辺を散歩している時につまづいたことから、「あぶなっかしい」とヘンリーがエレノアの手をつないだことから、それ以来浜辺を歩くときは手をつなぐのが普通になった。

 ヘンリーの手は大きく厚みがあった。美しい音を奏でるヘンリーの手が思ったよりも普通でエレノアは不思議な気がした。音楽の神に愛された天才の手だ。もっと違っているのではと何となく思っていた。

 二人は定期的に顔をあわせてはいたが、とくに意味のある会話をするわけではなく、ただ一緒にいるだけだった。

 使用人が気をきかせエレノアが訪問するたびに出してくれる茶の種類をかえ、茶と一緒に軽くつまめるものも毎回違うものを用意してくれたので、それらについて話したり、浜辺で見たことを話すなど、二人の間の会話は世間話といえるのか微妙なほどのそっけなさだった。

 ヘンリーはエレノアに興味を持ったわけではないため、ヘンリーがエレノアに聞いたことといえば、名前と夫に誤解されないかぐらいであった。

 ヘンリーよりもエレノアが年上なのは明らかで、夫については夫がいて当然だからと聞かれただけと分かっている。エレノアは未亡人であることをあえていわなかった。

 二十三歳という若い男性にとって年上の未亡人は格好の遊び相手と思われるのが普通だ。

 ヘンリーにその気がないのは分かっているが、ヘンリーよりも十歳年上である自分がしっかり予防線をはっておくべきだとエレノアは思った。

 そしてエレノアはヘンリーに怪我やピアノについて何も聞かなかった。ヘンリーが自分から話すまでふれるべきではないと思った。親しくもない人間が無神経にふれてよいことではない。

 ヘンリーとエレノアの知り合いといってよいのかためらうような関係は季節が夏になってもつづいた。
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