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第十章 遊戯
第十章 遊戯
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第十章 遊戯
もう、あと二、三分ほどで就業時間も終わる。
サインを終えた書類の束を確認し、レミアは、すっかりと日が短くなってしまった暗い外の景色に目を移す。
「ふむ。今日は久しぶりに早く帰れそうだが、家に帰っても趣味の時間が増えるだけで、あまり代わり映えしないのが悲しいところだ」
年の暮れが近いこの時期は、おおよそ毎日が多忙なのだが、たまに今日のようなポッカリと予定が空く日もある。
この仕事で疲れた心の癒やしに、ユウヤ殿を飲みにでも誘いたいのだが、愛妻家の彼を無理やり付き合わせるのは、彼にも彼の妻たちにも悪い。
「ああ、そうだ。ユウヤ殿も妻たちも一緒に誘うというのはどうだろうか?」
旅に出たシノに、自分が留守の間は、ユウヤ殿と彼の幼妻であるファリアとリナのことをくれぐれもよろしく頼むとお願いされているのだ。どこかのレストランを予約して、皆で食事をしながら、近況を尋ねるのもいいかもしれない。
美しい銀色の前髪に触れながら、そんな取り留めのないことを考えていると、仕事の終了を告げる大時計の鐘の音が聞こえてきた。
「よし。本日の仕事は終了だ。今日のところは一人寂しく帰るとするか。たまには私も早く帰らねば、他の皆が帰りにくい雰囲気を作り出してしまう」
特別な用事など何もないのだが、家路につくことを決めたレミアは、てきぱきと後片付けを終えると、コートに袖を通して区長室を後にする。
「レミア区長、お帰りですか?」
秘書のメイリィが、笑顔で声をかけて来た。
すると、皆が一斉にレミアの方を向いて、「お疲れさまです、レミア区長」と異口同音の挨拶をしてくれる。
その中には、もちろん、黒一点のユウヤも含まれている。彼に挨拶をしてもらえるというだけで、早く帰ることを決めた意義もあるというものだ。
結婚を境にして、彼は随分と明るくなってきた。どこか女というものに抱いていた苦手意識が消えてきた。けれど決して相手を慮ることを忘れない彼の振舞いは素晴らしい。それに、仕事も順調にこなしている。こと仕事に関しては言うことがない。
「まぁ、だからこそ、周りの女達にとっては、少々辛い部分もあるのだがな」
彼に毎晩可愛がってもらっているであろう、彼の妻たちへの羨望は、やはりどうしても心に抱いてしまうのだ。
ユウヤが魅力的な異性になればなるほど、彼を知る女達には、その思いが積み上がっていく。もちろん、それには、レミア自身も含まれている。
「ああ。今日は特段急ぐ仕事もないのでな。それでは、皆も程々で切り上げて帰るようにしてくれ。お疲れ様だ」
メイリィ達にそう言い残し、レミアは区役所を後にした。
「さて、帰る前に本屋でも巡ることにしよう。 そして、久しぶりに『フクロウ』に顔を出してみるかな」
レミアが口にする『フクロウ』とは、鳥の名前ではなく、カフェの略称だ。正式名称は、『フクロウの鳴き声』という。
コーヒーや紅茶が美味しいのはもちろん、軽食類も素晴らしい名店だ。
「ここのところ、遅い帰りが続いていたから、母も私の分の夕食の準備はしていないだろう。あの店のスパゲッティに舌鼓を打ち、コーヒーを楽しみながら少し読書するのもいいな」
あの店の店内は静かで、雰囲気が素晴らしい。それに、マスターが信用の置ける人物なので、居心地がいいのだ。
「ふむ。せっかくだ。前々から興味があった、あのシリーズを手に入れようか」
最近できた、共通の趣味を持つ友人のために、新刊を増やして置こう。
「だが、あの先生のシリーズの方がいいだろうか? いや、まずは新刊だな。それを確認してから買う本を選ぼう」
レミアはそんなプランを考え、本屋に足を進ませようとしたのだが、眼前に金色の髪の美しい少女が立っていることに気づく。
彼女はファリアだ。
ユウヤの妻の一人で、つい先程思い浮かべた、共通の趣味を持つ友人とは彼女のことにほかならない。
「しかし、本当にあの娘は美しいな」
流石に付き合いも長くなってきたので慣れはしたが、やはり彼女の美しさは群を抜いている。今のように、ただ彼女がそこに立っているだけで絵になるのだから。
もっとも、彼女はそのあまりの美貌に苦労をしていたらしい。けれど、ユウヤという伴侶を得たことで、その悩みからも解き放たれて、幸せな生活を送っている。
「ぬぅ、私も、この少々変わった性癖を受け入れてくれる殿方が欲しいものだ」
冬の寒さに、ついつい人肌のぬくもりが欲しくなってしまう。
そんな事を考えて苦笑したレミアだったが、すぐにそれを微笑みに変えて、ファリアに話しかける。
「こんばんは、ファリア。珍しいな。この時間に君が外に出ているとは。もしや、ユウヤ殿のお迎えかな?」
いつもならば彼女は、愛しい夫のために、リナと一緒に家で帰りを待っているはずだ。
「こんばんは、レミアさん。お仕事お疲れさまでした」
ファリアはこちらに気づくなり歩み寄ってきて、会釈する。だが、その後に続いた言葉は、レミアの予想とは異なっていた。
「その、レミアさん。大変不躾なお願いなのですが、この後、少しお時間を割いて頂けませんでしょうか?」
ファリアは端正な顔を俯けて、申し訳無さそうに頼んでくる。
まさか、自分に用事があるとは思わなかったレミアは驚いたが、ファリアの表情から事態を察した。
「ふむ。その顔だと、新しい本を借りたいと言ったような要件ではなさそうだな。ちょうど私はこれから馴染みのカフェに行こうと思っていたのだ。よければそこで話をしないか?
そこのマスターは寡黙で、決して客の話を盗み聞いて他言することはないので、安心してほしい」
レミアのその誘いに、ファリアは「はい」と答えて頷いた。
◇
『フクロウの鳴き声』に入店して、案内された席についても、ファリアは何も喋らない。いや、喋りたくないわけではなく、あまりにも抱えている問題が大きすぎて、どう話を切り出せばいいのか考えあぐねているようだ。
「たしか、君は紅茶派だったな。ああ、それと、夕食はもう食べたのかな?」
レミアは少し緊張を和らげようと、簡単な質問をする。
「あっ、その、はい。ですので、紅茶だけ頂きま……」
「こらこら。嘘を付く必要はないぞ。安心したまえ。私がこの店を指定したのだ。ごちそうするよ」
レミアは力強い笑みをファリアに向ける。
「ですが、夕食をリナが作って待っていますので」
「ふっ。夫達には内緒で外食するのは気がひけると言ったところかな? だが、私は君と一緒に食事がしたいと思っている。まぁ、まず考えられないが、ユウヤ殿達になにか言われる事があれば、私に強引に誘われて仕方なかったと言えばいい。
それに、たまには外食をして、新しい味を取り入れることも必要だぞ。旨い料理を食べて舌を肥やしておけば、自分の料理の上達にも繋がるだろう。それが巡って愛する夫に喜んでもらうことにもなるのだからね」
レミアは強引にそう結論づけると、エプロンを身につけた寡黙な店主に、自分とファリアの分の紅茶と料理を注文する。
「ふふふっ。楽しみにしているといい。紅茶も素晴らしいが、彼女の作る料理は絶品だ」
「はい。ありがとうございます」
感謝の言葉を口にしながらも、心あらずといった感じのファリア。
程なく紅茶が運ばれて来て、それを持ってきた店主――レアが厨房に戻っていった。
レミアは紅茶を一口だけ飲むと、
「さて、料理が出てくるまでの間に、少し話を聞こう。大丈夫だ。他言は絶対にしないし、けっして君の相談事を軽んじたりはしない。
先程から、その洒落た革のバッグを目で追っているようだが、その中に、私に見せたいものがあるのかな?」
そう真っ直ぐに切り込んでいく。
強引であることは十分承知しているが、相談の内容を話してくれないことには先に進めない。ましてや、今回の一件は、聡明なこの少女でも手に余る一件なのだろう。そうであるのなら、少しでも早く彼女を重荷から解き放つ手助けをしてあげたい。
「はい。まず、読んで頂きたい物があります」
ファリアはバッグから紐で束ねられた本を取り出して、それをレミアに差し出してきた。
「ふむ。市販の本ではないようだな」
レミアが受け取った本の表紙と裏表紙には、何も書かれていない。真っ白な紙だ。
「はい。リナがこの街にやってくる直前に、リスレ神殿の先輩から手渡されたという手製の本です。そしてこの本の内容は、昨日までは、ただの性教育の教科書でした」
ファリアの言葉に、レミアは「なるほど」と答え、本を開いて無言で目を走らせていく。
「正直、下らない悪戯と思われるかと思います。私も心のどこかで、そんな気持ちを捨てきれずにいますので」
黙々と本を読み進めるレミアの耳に、返事を期待しない独り言のような呟きが聞こえた。
しかし、レミアは本から目を離し、気持ちを吐露したファリアに対して笑みを向ける。
「そうだな。君とリナにとっては、その方がありがたい話のはずだ」
レミアはそう言って、紅茶を口に運び、話を続ける。
「だが、そうではないと考えているのだろう? この本に書かれている内容が真実だと思うに足る理由が、君たちにはあるということかな?」
「はい。おっしゃるとおりです。以前の私達の神殿での生活も、この街の『約束の日』と呼ばれる日の存在も、シノが残していった言葉にも、そこに書かれている内容と符合する点が多すぎるのです」
ファリアの言葉に、レミアは頷く。
「まず、先に言っておこう。私は君のこの話を信用に値するものだと考えているよ。それを理解してほしい。そのうえで、これから君たちがしたいと、またはしなければいけないと思っていることをまとめて行こう。
ここに書かれている内容が、真実か否かの議論をしている暇はもう残されていない。有事への対策というものは、それが実際に起こる前にして置かなければならないことだからね」
レミアはそう言うと、視線をファリアから横に移す。その視線の先には、料理を手にしたレアが立っていた。
レミアは僅かに右手を上げて合図を送る。すると、彼女はレミアたちのテーブルに料理の皿を給餌し、「どうぞ、ごゆっくり」と言い残して厨房に戻っていった。
「話の途中だが、このパスタは熱いうちが食べごろだ。話を進めるまえに、ひとまずお腹を満たそう。空腹では、いい考えも浮かばないぞ」
ファリアが「はい」と頷いたので、レミアも食事を開始することにする。
「ふふっ。ファリア。ただのカルボナーラに肩透かしを受けてしまったかな? だが、それは早計だ。一口食べてみるといい」
ファリアは頷き、食事前の短い祈りを捧げ、そして「いただきます」と口にして、カルボナーラをフォークで口に運ぶ。
この、「いただきます」というのは、彼女の夫や妻のシノが口にする食事前のあいさつだ。異国の風習だが、レミアも気に入って取り入れている。
レミアは自分も「いただきます」と口にし、パスタを口に運ぶ。
「ふっ、ふふふ。相変わらず旨いな」
そんな感想を抱くレミアだったが、眼前の少女が目を大きく見開いて驚く様子が、さらに料理の旨さを増してくれた。
「驚きました。こんなに美味しいカルボナーラは初めてです。くどさはまるでないのですが、深い味わいを感じられて……」
ファリアはそう言って、もう一口分を口に運ぶ。そして、嬉しそうに微笑んだ。
その年相応の笑顔に、レミアの頬が緩む。
「気に入ってもらえたようで何よりだ」
レミアはファリアとの食事を楽しんだ。ただ黙って絶品のパスタを二人で味わうだけなのだが、思い悩むファリアには、こういった時間が必要なはずだ。
「ああ、レア。紅茶をもう一杯ずつもらえるかな」
ファリアがパスタを食べ終わる少し前に、レミアは少し大きな声で紅茶のおかわりを注文する。そして、それが到着し、食べ終わったパスタ皿が下げられる。
レアが遠ざかったのを確認し、レミアはファリアに話しかけた。
「どうだったかな、この店のパスタの味は?」
「はい。とても美味しかったです」
笑顔で答えたファリアは、しかし、すぐに顔を俯ける。
「ファリア。深刻に思う気持ちも分かる。そして、君がその身を裂かれるような想いで、これからしようとしていることも察している。だがな、心に余裕を持つことだけは忘れてはいけない。事が深刻であればあるほど、それは重要なことだ」
レミアはそう言うと、瞬時に覚悟を決めた。
この年若い少女が、全てを賭けて事に当たろうとするのであれば、自分も覚悟を見せる必要があるだろう。そうでなければ、信頼を得ることができない。
「何にせよ、極力食事は抜かないことだ。マイナス面のほうが大きい。『朝食はユウヤ殿に心配させないようにと口にしたようだが、昼は何も食べていないのだろう?』」
笑顔で言うレミアのその言葉に、ファリアの表情が一変する。憂いは消え去り、剣呑な光が彼女の瞳に宿る。
「何故。そのことをご存知なのですか? 先程は私の何らかの様子から察したと思い、聞き流してしまいましたが、私が夕食を食べていないことも的中させていましたし……」
ファリアの声は低い。返答次第ではただでは置かないと行った雰囲気だ。しかし、レミアは笑みを崩さない。
「勘違いをしないでくれ。私は君の敵ではない。むしろ、味方になりたいと思っているのだ。そして、君がこれから見つけるつもりだった、あと二人の仲間の一人を私にしてはどうかと提案しているのだよ」
レミアは静かに紅茶を口に運び、嫋やかに微笑む。
「私の力は、もう大体の察しはついているのだろう? そう。私はその本に書かれている『能力』を最初から有している人間だ。それ故に、君の仲間となれば、役に立つことができると思っているよ。
私がその本の話をすんなりと受け入れたのは、こういった理由もあったからだ」
そこまでレミアが話すと、ファリアはハッとした表情になり、頭を下げてきた。
「大変失礼いたしました。ですが、その、よろしいのですか? この本に書かれていることが事実であれば……」
「事実だよ。『事実であれば』ではない。それらを踏まえた上で、提案している。私を仲間にしてくれないか? 見知らぬ誰かを仲間に引き入れるリスクを取るより、その方が君達にとっても良い話ではないかな?」
レミアは自分の手札を全て明かした。
もしも、ファリアがこの提案を断り、さらにこの能力のことを世間に吹聴すれば、レミアは破滅する。だが、自らの破滅を賭ける価値がこの話にはあるのだ。
「これは、もちろん善意だけの提案ではない。私がユウヤ殿を好いていて、彼の女になりたいという願いを叶えるために言っている部分もある。
彼が一度きりの遊びと割り切って女を抱ける性格でないことを見越して言っているのだ」
交渉事を進める上で、『信頼』とは重要な要素だ。それを得るために、レミアは決して嘘を言わない。だから、改めてリスクをファリアに提示する。
「……」
ファリアは何も言葉を口にしない。彼女は葛藤しているのだ。夫をこれ以上別の女のものにしたくない気持ちと、その大切な夫を守るためには、それを捻じ曲げなければいけない現実との間で。
「ファリア。最低でもあと二人の女をユウヤ殿に抱いて貰わねばならない。そうしなければ、抵抗する機会さえ失ってしまう」
レミアは事実を口にする。冷徹で、無慈悲な現実を。けれど、その声色は優しい。幼子に優しく言い聞かせる母親のような慈愛に満ちた語りだった。
聡明なファリアは分かっているのだ。受け入れなければいけない事柄を。ただ、まだ心がついていかないだけなのだ。
「これから始まる争いは過酷なものになるだろう。それが分かっているから、君は心根の優しすぎるユウヤ殿やリナを、そんな戦いに巻き込みたくないと思っているのだろう?
シノが居ない今、大切な家族を守るのは自分の役目だと思い、その責務を全て一人で抱えようとしているのだろう?」
レミアは席を立ち、何も言えずにいるファリアを抱きしめた。
「君の大切な夫の心を分けてもらう代わりに、私はこの力と命の全てを、君たちのために使うことを約束する。お願いだ。君の重荷を一緒に背負わせてくれ」
レミアの心からの願いに、ファリアは口を開く。
「……お願いします。私達に……力を貸してください……」
懸命に嗚咽が漏れるのを堪えているのだろう。ファリアは震え声でそう口にした。
「分かった。ありがとう、ファリア」
感謝の言葉を口にすると、体を震わせて涙を流すファリアが落ち着くまで、レミアは優しく彼女を抱きしめ続けるのだった。
もう、あと二、三分ほどで就業時間も終わる。
サインを終えた書類の束を確認し、レミアは、すっかりと日が短くなってしまった暗い外の景色に目を移す。
「ふむ。今日は久しぶりに早く帰れそうだが、家に帰っても趣味の時間が増えるだけで、あまり代わり映えしないのが悲しいところだ」
年の暮れが近いこの時期は、おおよそ毎日が多忙なのだが、たまに今日のようなポッカリと予定が空く日もある。
この仕事で疲れた心の癒やしに、ユウヤ殿を飲みにでも誘いたいのだが、愛妻家の彼を無理やり付き合わせるのは、彼にも彼の妻たちにも悪い。
「ああ、そうだ。ユウヤ殿も妻たちも一緒に誘うというのはどうだろうか?」
旅に出たシノに、自分が留守の間は、ユウヤ殿と彼の幼妻であるファリアとリナのことをくれぐれもよろしく頼むとお願いされているのだ。どこかのレストランを予約して、皆で食事をしながら、近況を尋ねるのもいいかもしれない。
美しい銀色の前髪に触れながら、そんな取り留めのないことを考えていると、仕事の終了を告げる大時計の鐘の音が聞こえてきた。
「よし。本日の仕事は終了だ。今日のところは一人寂しく帰るとするか。たまには私も早く帰らねば、他の皆が帰りにくい雰囲気を作り出してしまう」
特別な用事など何もないのだが、家路につくことを決めたレミアは、てきぱきと後片付けを終えると、コートに袖を通して区長室を後にする。
「レミア区長、お帰りですか?」
秘書のメイリィが、笑顔で声をかけて来た。
すると、皆が一斉にレミアの方を向いて、「お疲れさまです、レミア区長」と異口同音の挨拶をしてくれる。
その中には、もちろん、黒一点のユウヤも含まれている。彼に挨拶をしてもらえるというだけで、早く帰ることを決めた意義もあるというものだ。
結婚を境にして、彼は随分と明るくなってきた。どこか女というものに抱いていた苦手意識が消えてきた。けれど決して相手を慮ることを忘れない彼の振舞いは素晴らしい。それに、仕事も順調にこなしている。こと仕事に関しては言うことがない。
「まぁ、だからこそ、周りの女達にとっては、少々辛い部分もあるのだがな」
彼に毎晩可愛がってもらっているであろう、彼の妻たちへの羨望は、やはりどうしても心に抱いてしまうのだ。
ユウヤが魅力的な異性になればなるほど、彼を知る女達には、その思いが積み上がっていく。もちろん、それには、レミア自身も含まれている。
「ああ。今日は特段急ぐ仕事もないのでな。それでは、皆も程々で切り上げて帰るようにしてくれ。お疲れ様だ」
メイリィ達にそう言い残し、レミアは区役所を後にした。
「さて、帰る前に本屋でも巡ることにしよう。 そして、久しぶりに『フクロウ』に顔を出してみるかな」
レミアが口にする『フクロウ』とは、鳥の名前ではなく、カフェの略称だ。正式名称は、『フクロウの鳴き声』という。
コーヒーや紅茶が美味しいのはもちろん、軽食類も素晴らしい名店だ。
「ここのところ、遅い帰りが続いていたから、母も私の分の夕食の準備はしていないだろう。あの店のスパゲッティに舌鼓を打ち、コーヒーを楽しみながら少し読書するのもいいな」
あの店の店内は静かで、雰囲気が素晴らしい。それに、マスターが信用の置ける人物なので、居心地がいいのだ。
「ふむ。せっかくだ。前々から興味があった、あのシリーズを手に入れようか」
最近できた、共通の趣味を持つ友人のために、新刊を増やして置こう。
「だが、あの先生のシリーズの方がいいだろうか? いや、まずは新刊だな。それを確認してから買う本を選ぼう」
レミアはそんなプランを考え、本屋に足を進ませようとしたのだが、眼前に金色の髪の美しい少女が立っていることに気づく。
彼女はファリアだ。
ユウヤの妻の一人で、つい先程思い浮かべた、共通の趣味を持つ友人とは彼女のことにほかならない。
「しかし、本当にあの娘は美しいな」
流石に付き合いも長くなってきたので慣れはしたが、やはり彼女の美しさは群を抜いている。今のように、ただ彼女がそこに立っているだけで絵になるのだから。
もっとも、彼女はそのあまりの美貌に苦労をしていたらしい。けれど、ユウヤという伴侶を得たことで、その悩みからも解き放たれて、幸せな生活を送っている。
「ぬぅ、私も、この少々変わった性癖を受け入れてくれる殿方が欲しいものだ」
冬の寒さに、ついつい人肌のぬくもりが欲しくなってしまう。
そんな事を考えて苦笑したレミアだったが、すぐにそれを微笑みに変えて、ファリアに話しかける。
「こんばんは、ファリア。珍しいな。この時間に君が外に出ているとは。もしや、ユウヤ殿のお迎えかな?」
いつもならば彼女は、愛しい夫のために、リナと一緒に家で帰りを待っているはずだ。
「こんばんは、レミアさん。お仕事お疲れさまでした」
ファリアはこちらに気づくなり歩み寄ってきて、会釈する。だが、その後に続いた言葉は、レミアの予想とは異なっていた。
「その、レミアさん。大変不躾なお願いなのですが、この後、少しお時間を割いて頂けませんでしょうか?」
ファリアは端正な顔を俯けて、申し訳無さそうに頼んでくる。
まさか、自分に用事があるとは思わなかったレミアは驚いたが、ファリアの表情から事態を察した。
「ふむ。その顔だと、新しい本を借りたいと言ったような要件ではなさそうだな。ちょうど私はこれから馴染みのカフェに行こうと思っていたのだ。よければそこで話をしないか?
そこのマスターは寡黙で、決して客の話を盗み聞いて他言することはないので、安心してほしい」
レミアのその誘いに、ファリアは「はい」と答えて頷いた。
◇
『フクロウの鳴き声』に入店して、案内された席についても、ファリアは何も喋らない。いや、喋りたくないわけではなく、あまりにも抱えている問題が大きすぎて、どう話を切り出せばいいのか考えあぐねているようだ。
「たしか、君は紅茶派だったな。ああ、それと、夕食はもう食べたのかな?」
レミアは少し緊張を和らげようと、簡単な質問をする。
「あっ、その、はい。ですので、紅茶だけ頂きま……」
「こらこら。嘘を付く必要はないぞ。安心したまえ。私がこの店を指定したのだ。ごちそうするよ」
レミアは力強い笑みをファリアに向ける。
「ですが、夕食をリナが作って待っていますので」
「ふっ。夫達には内緒で外食するのは気がひけると言ったところかな? だが、私は君と一緒に食事がしたいと思っている。まぁ、まず考えられないが、ユウヤ殿達になにか言われる事があれば、私に強引に誘われて仕方なかったと言えばいい。
それに、たまには外食をして、新しい味を取り入れることも必要だぞ。旨い料理を食べて舌を肥やしておけば、自分の料理の上達にも繋がるだろう。それが巡って愛する夫に喜んでもらうことにもなるのだからね」
レミアは強引にそう結論づけると、エプロンを身につけた寡黙な店主に、自分とファリアの分の紅茶と料理を注文する。
「ふふふっ。楽しみにしているといい。紅茶も素晴らしいが、彼女の作る料理は絶品だ」
「はい。ありがとうございます」
感謝の言葉を口にしながらも、心あらずといった感じのファリア。
程なく紅茶が運ばれて来て、それを持ってきた店主――レアが厨房に戻っていった。
レミアは紅茶を一口だけ飲むと、
「さて、料理が出てくるまでの間に、少し話を聞こう。大丈夫だ。他言は絶対にしないし、けっして君の相談事を軽んじたりはしない。
先程から、その洒落た革のバッグを目で追っているようだが、その中に、私に見せたいものがあるのかな?」
そう真っ直ぐに切り込んでいく。
強引であることは十分承知しているが、相談の内容を話してくれないことには先に進めない。ましてや、今回の一件は、聡明なこの少女でも手に余る一件なのだろう。そうであるのなら、少しでも早く彼女を重荷から解き放つ手助けをしてあげたい。
「はい。まず、読んで頂きたい物があります」
ファリアはバッグから紐で束ねられた本を取り出して、それをレミアに差し出してきた。
「ふむ。市販の本ではないようだな」
レミアが受け取った本の表紙と裏表紙には、何も書かれていない。真っ白な紙だ。
「はい。リナがこの街にやってくる直前に、リスレ神殿の先輩から手渡されたという手製の本です。そしてこの本の内容は、昨日までは、ただの性教育の教科書でした」
ファリアの言葉に、レミアは「なるほど」と答え、本を開いて無言で目を走らせていく。
「正直、下らない悪戯と思われるかと思います。私も心のどこかで、そんな気持ちを捨てきれずにいますので」
黙々と本を読み進めるレミアの耳に、返事を期待しない独り言のような呟きが聞こえた。
しかし、レミアは本から目を離し、気持ちを吐露したファリアに対して笑みを向ける。
「そうだな。君とリナにとっては、その方がありがたい話のはずだ」
レミアはそう言って、紅茶を口に運び、話を続ける。
「だが、そうではないと考えているのだろう? この本に書かれている内容が真実だと思うに足る理由が、君たちにはあるということかな?」
「はい。おっしゃるとおりです。以前の私達の神殿での生活も、この街の『約束の日』と呼ばれる日の存在も、シノが残していった言葉にも、そこに書かれている内容と符合する点が多すぎるのです」
ファリアの言葉に、レミアは頷く。
「まず、先に言っておこう。私は君のこの話を信用に値するものだと考えているよ。それを理解してほしい。そのうえで、これから君たちがしたいと、またはしなければいけないと思っていることをまとめて行こう。
ここに書かれている内容が、真実か否かの議論をしている暇はもう残されていない。有事への対策というものは、それが実際に起こる前にして置かなければならないことだからね」
レミアはそう言うと、視線をファリアから横に移す。その視線の先には、料理を手にしたレアが立っていた。
レミアは僅かに右手を上げて合図を送る。すると、彼女はレミアたちのテーブルに料理の皿を給餌し、「どうぞ、ごゆっくり」と言い残して厨房に戻っていった。
「話の途中だが、このパスタは熱いうちが食べごろだ。話を進めるまえに、ひとまずお腹を満たそう。空腹では、いい考えも浮かばないぞ」
ファリアが「はい」と頷いたので、レミアも食事を開始することにする。
「ふふっ。ファリア。ただのカルボナーラに肩透かしを受けてしまったかな? だが、それは早計だ。一口食べてみるといい」
ファリアは頷き、食事前の短い祈りを捧げ、そして「いただきます」と口にして、カルボナーラをフォークで口に運ぶ。
この、「いただきます」というのは、彼女の夫や妻のシノが口にする食事前のあいさつだ。異国の風習だが、レミアも気に入って取り入れている。
レミアは自分も「いただきます」と口にし、パスタを口に運ぶ。
「ふっ、ふふふ。相変わらず旨いな」
そんな感想を抱くレミアだったが、眼前の少女が目を大きく見開いて驚く様子が、さらに料理の旨さを増してくれた。
「驚きました。こんなに美味しいカルボナーラは初めてです。くどさはまるでないのですが、深い味わいを感じられて……」
ファリアはそう言って、もう一口分を口に運ぶ。そして、嬉しそうに微笑んだ。
その年相応の笑顔に、レミアの頬が緩む。
「気に入ってもらえたようで何よりだ」
レミアはファリアとの食事を楽しんだ。ただ黙って絶品のパスタを二人で味わうだけなのだが、思い悩むファリアには、こういった時間が必要なはずだ。
「ああ、レア。紅茶をもう一杯ずつもらえるかな」
ファリアがパスタを食べ終わる少し前に、レミアは少し大きな声で紅茶のおかわりを注文する。そして、それが到着し、食べ終わったパスタ皿が下げられる。
レアが遠ざかったのを確認し、レミアはファリアに話しかけた。
「どうだったかな、この店のパスタの味は?」
「はい。とても美味しかったです」
笑顔で答えたファリアは、しかし、すぐに顔を俯ける。
「ファリア。深刻に思う気持ちも分かる。そして、君がその身を裂かれるような想いで、これからしようとしていることも察している。だがな、心に余裕を持つことだけは忘れてはいけない。事が深刻であればあるほど、それは重要なことだ」
レミアはそう言うと、瞬時に覚悟を決めた。
この年若い少女が、全てを賭けて事に当たろうとするのであれば、自分も覚悟を見せる必要があるだろう。そうでなければ、信頼を得ることができない。
「何にせよ、極力食事は抜かないことだ。マイナス面のほうが大きい。『朝食はユウヤ殿に心配させないようにと口にしたようだが、昼は何も食べていないのだろう?』」
笑顔で言うレミアのその言葉に、ファリアの表情が一変する。憂いは消え去り、剣呑な光が彼女の瞳に宿る。
「何故。そのことをご存知なのですか? 先程は私の何らかの様子から察したと思い、聞き流してしまいましたが、私が夕食を食べていないことも的中させていましたし……」
ファリアの声は低い。返答次第ではただでは置かないと行った雰囲気だ。しかし、レミアは笑みを崩さない。
「勘違いをしないでくれ。私は君の敵ではない。むしろ、味方になりたいと思っているのだ。そして、君がこれから見つけるつもりだった、あと二人の仲間の一人を私にしてはどうかと提案しているのだよ」
レミアは静かに紅茶を口に運び、嫋やかに微笑む。
「私の力は、もう大体の察しはついているのだろう? そう。私はその本に書かれている『能力』を最初から有している人間だ。それ故に、君の仲間となれば、役に立つことができると思っているよ。
私がその本の話をすんなりと受け入れたのは、こういった理由もあったからだ」
そこまでレミアが話すと、ファリアはハッとした表情になり、頭を下げてきた。
「大変失礼いたしました。ですが、その、よろしいのですか? この本に書かれていることが事実であれば……」
「事実だよ。『事実であれば』ではない。それらを踏まえた上で、提案している。私を仲間にしてくれないか? 見知らぬ誰かを仲間に引き入れるリスクを取るより、その方が君達にとっても良い話ではないかな?」
レミアは自分の手札を全て明かした。
もしも、ファリアがこの提案を断り、さらにこの能力のことを世間に吹聴すれば、レミアは破滅する。だが、自らの破滅を賭ける価値がこの話にはあるのだ。
「これは、もちろん善意だけの提案ではない。私がユウヤ殿を好いていて、彼の女になりたいという願いを叶えるために言っている部分もある。
彼が一度きりの遊びと割り切って女を抱ける性格でないことを見越して言っているのだ」
交渉事を進める上で、『信頼』とは重要な要素だ。それを得るために、レミアは決して嘘を言わない。だから、改めてリスクをファリアに提示する。
「……」
ファリアは何も言葉を口にしない。彼女は葛藤しているのだ。夫をこれ以上別の女のものにしたくない気持ちと、その大切な夫を守るためには、それを捻じ曲げなければいけない現実との間で。
「ファリア。最低でもあと二人の女をユウヤ殿に抱いて貰わねばならない。そうしなければ、抵抗する機会さえ失ってしまう」
レミアは事実を口にする。冷徹で、無慈悲な現実を。けれど、その声色は優しい。幼子に優しく言い聞かせる母親のような慈愛に満ちた語りだった。
聡明なファリアは分かっているのだ。受け入れなければいけない事柄を。ただ、まだ心がついていかないだけなのだ。
「これから始まる争いは過酷なものになるだろう。それが分かっているから、君は心根の優しすぎるユウヤ殿やリナを、そんな戦いに巻き込みたくないと思っているのだろう?
シノが居ない今、大切な家族を守るのは自分の役目だと思い、その責務を全て一人で抱えようとしているのだろう?」
レミアは席を立ち、何も言えずにいるファリアを抱きしめた。
「君の大切な夫の心を分けてもらう代わりに、私はこの力と命の全てを、君たちのために使うことを約束する。お願いだ。君の重荷を一緒に背負わせてくれ」
レミアの心からの願いに、ファリアは口を開く。
「……お願いします。私達に……力を貸してください……」
懸命に嗚咽が漏れるのを堪えているのだろう。ファリアは震え声でそう口にした。
「分かった。ありがとう、ファリア」
感謝の言葉を口にすると、体を震わせて涙を流すファリアが落ち着くまで、レミアは優しく彼女を抱きしめ続けるのだった。
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おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
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