彼は、英雄とは呼ばれずに

トド

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第五章 邂逅は、波乱とともに

㉔ 『言葉にできない気持ちでも』

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 暑い夏の日差しよりも頬が熱くなるのを感じながら、メルエーナは幸せを噛みしめる。

「そうだ。慌てることはない。顔を水につけることも抵抗はなく、体の力を抜いて浮かぶことも覚えられた。一度に慌てて全てを理解しようとしなくて良い。少しずつ確実にものにしていった方がいいだろう」
 ジェノのアドバイスを聞き、メルエーナは緩んでしまいそうな顔を引き締め、「はい」と応えて、体を動かして前に進む練習を繰り返す。

 両手をジェノに掴んでもらいながら行うこの練習は、彼に思いを寄せるメルエーナにとってはこの上なく楽しい時間だった。

「よし。水から出て休憩にしよう」
「あっ、そっ、そうですね」
 あまりにジェノと二人っきりでの指導が幸せで、そこに泳ぐという未知なる技能を身に着けていっている感覚にやりがいが加わり、すっかり時間を忘れて没頭してしまった。

「ふふっ。結構疲れるんですね、泳ぐ練習って」
 練習している時には気が付かなかったが、水から上がって歩くと体力の消耗を感じる。

 練習ということで水深の浅いところで行っていたのだが、足を滑らさないようにとの配慮なのだろう。ジェノは自ら出るまでずっと手を引いてくれた。それが嬉しくて堪らない。
 これだけでも、この旅行に来た価値があるとメルエーナはご満悦だった。

「メルエーナ。しっかり水分補給をしておいた方がいい。かなり汗をかいたからな」
 みんなの荷物を置いた敷物のところに戻り、ジェノが手渡してくれた水筒を受け取る。

 自身の水分補給よりも先に、こうして優先して飲み物を手渡してくれる優しさに感謝するのとともに、メルエーナは本当に自分はこの男の人が好きなのだと再認識をする。

 黒髪に茶色の瞳。整った顔立ちに、細いけれど男の人らしい筋肉質な体。
 少し前に、お風呂場で彼の上半身の裸を見てしまったことで罪悪感を覚えたが、今日のことで、少し恥ずかしいことに変わりはないけれど、流石に慣れた。
 ただ、そうなると、それ以上を求めてしまいたくなるのも自然なこと。

「どうかしたのか?」
 ぼぉ~っと、受け取った水筒を手に持ったまま、男性らしい体に見とれて、少しだけでいいからそれに触れてみたいと思ってしまっていたメルエーナは、ジェノのその問いかけに、「あっ、いえ、なんでもありません!」と慌てて応えて、水分補給をする。

 本当に節操のない自分のふしだらな心を反省しながらも、もしも目の前の人が、大好きな人が、自分を異性として見て、同じような気持ちを抱いてくれたらどれだけ幸せだろうかと考えてしまう。

「レイルンも楽しんでいるようだな」
 自分達とは少し離れたところで、ビーチボールで遊んでいる他のみんなを見ながら、ジェノはいつもの無愛想な表情でありながらも、少しだけ口の端を上げる。

「……ええ。少しでも気が紛れるといいんですが」
 メルエーナはジェノの優しさを好ましく思う。

 ずっと会いたいと願っていた女の子が、すでに大人になってしまい、他の男性と結婚して子供までいると知ってしまったレイルンの事も、この人はずっと心配し続けていてくれたのだ。

 そう、本当に好ましく思う。
 でも、どうしてもこう思ってしまう自分もいる。

 ――もう少し、貴方は自分のことを考えて下さい、と。

 
 いつもそうだ。
 この人は周りの人のことばかりを考えていて、自分のことをないがしろにするのだ。

 他の人の幸せこそが自分の幸せだと思っているのだ。この人は心から……。

 それは立派なことだ。でも、そのあり方は酷く歪にメルエーナには映る。

 誰かに優しくするためには、自分が幸せでないと続かないはずだ。
 それを無理にこの人は続けている気がしてならない。

 自らの精神を、肉体を、命を摩耗させて、他人に尽くすことにだけ尽力してしまっている。
 そんな事を続けていては、遠からず限界がやってきてしまう。

「私は、もっと長い時間を……」
 そこまで思わず声に出てしまい、メルエーナは慌てて手で口を抑える。

 それほど大きな声出なかったのが幸いしたのだろう。
 幸せそうに、そしてどこか寂しそうにレイルン達を見るジェノには、そ声は聞こえなかったようだ。

 ほっと胸をなでおろし、メルエーナは心のなかで言葉を紡ぐ。

(ジェノさん。私は、もっと長い時間を貴方と一緒に歩いていきたいです。貴方に見守られるのではなく、隣に立っていたいんです。

 ですから、私のことを欲しいと思ってくれませんか? 私を受け入れてくれませんか?

 そうしたら、そんな寂しい顔はさせません。

 ……貴方が誰かを守りたいのならばそれで構わないです。

 でも、自分を守ってくれる存在が欲しいと言ってくれませんか? 私に隣にいて欲しいと言ってくれませんか?

 一年と少しの間だけですが、私は誰よりも近くで貴方を見てきました。
 ですから、分かるんです。

 貴方が傷ついているのだということが。

 その理由を話せるほどには、私はまだ信用できませんか? 抱えている重荷を背負わせてはくれないのですか?

 私は何の取り柄もない人間ですけれど、誰よりも貴方が幸せになることを願っているんですよ)

 言葉にできない想いを、メルエーナはじっとジェノの横顔を見ながら、心で訴えかけた。
 いうまでもなく、言葉にしないそれは、相手には届かない。

 けれど……。

「……どうした、メルエーナ?」
 こちらの視線に気づき、ジェノが口にしたのはいつもと同じような言葉。

 だが、その表情が違っていた。明らかに。

 それはたまたまの偶然だったのかも知れない。
 
 でも彼は困ったように、けれど――初めて見せる裸の表情で、確かに微笑んでくれたのだった。
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