彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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お世話さま

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 足下を掬われることを嫌い、逃げ込んだはずの体育館の屋根の下は、老若男女が一堂に会する集会めいた雰囲気が漂っていた。

「緊急避難警報は解除されました」

 気まぐれな雨の調べは、切れの悪い小便のように取るに足らず、時間だけを損なう徒労な避難であった。しかし、自然災害だ。杞憂に越したことはない。それでも、俺の妙な楽観的な気構えと符合して、仰々しい雨宿りがより陳腐に思えた。我に返った人々が体育館の出入り口で列を成し始め、俺たちは少し離れたところからそれを眺めていた。

 電子煙草を燻らせる高松は同級生の友人である。母校の体育館に似つかわしくない臭いが鼻をつき、羽音を叩くように腕を扇いでしまう。俺は煙たくて扇いだ腕を、別れの所作に変えてまで、身持ちの悪さを取り繕った。

「それじゃあ、また何処かで」

 逃げるように列に紛れていると、程なくして外へ出ることができた。夜の帳が下りてからもう何時間、経っただろうか。車の前照灯が校庭のグラウンドを照らしながら、整然と駐車をしていたはずの人々が、我先に帰ろうと割り込みすら辞さぬ様相を呈していた。さながら濁流する川のようであった。

 俺はそれを横目に、帰路につく。一変すると思われた景色は平々凡々とありのまま残っており、なんだか拍子抜けした。ゆくりなく風が吹き、川の臭いを嗅ぐ。大雨が降った後は、川底をひっくり返したような生臭い臭いが漂う。ここから数十メートル先にある白いガードレールは、川への逸脱を防止するために設けられた、防護柵がある。恐らく、泥水のように茶色く濁った川が大手を広げて流れているのだろう。想像に難くない。

 脇目も振らず目の前を横切る野良猫が人家の庭先へ潜り込む。野生の勘が導く場所として、間の悪さは拭えない。庭で一息つく野良猫の横を俺が通り過ぎようとすれば、野良猫は衣服を乱して驚く貴婦人のように、慌てて隣家の隙間に消えていった。俺は玄関の鍵を解錠し帰宅する。土間の灯りを点けると、廊下の突き当たりにある居間の扉が僅かに開いていることに気付いた。

 俺は気配を絶って、つぶさに物音を聴こうと耳を澄ませる。だが、部外者の滞在する気配は一切感じず、忍び足ながらやおら足を運ぶ。覗き見るには少々、無理がある居間の扉の隙間に、中指を差し込む。そして、出来るだけ音が出ることを避けつつ、押し開いた。街灯の光を浴びながら歩いたせいか、なかなか夜目が利きづらく、文目も知れぬ居間の暗闇に俺は電気を点灯させる。

「……」

 そこには、いつもと変わぬ景色が広がっており、要らぬ疑心感に苛まされたと息を吐く。ただ、直下に気付いた。カーペットの上に口の開いた青いビニール袋が雑然と二つ、置かれていたことに。どれだけ忙しかろうが掃除は欠かさない母親が、このような所在を許すわけはない。

 ビニール袋の口はしばらく固く縛られていたのか、飾り付けられたケーキのクリームのようにくびれて立ったままだ。俺は死角となる、キッチンを見て回り、他人が潜んでいないことを今一度、確認した。俺は、ビニール袋の内訳に取り掛かる。触れることさえ憚られる不気味さだった為、谷底を眺めるかのように首を伸ばし、眼下にビニール袋を据えた。自分の頭が影となり、中身は判然としないものの、色味でいうなら黄色い。はっきりと物を把捉するには、頭をもう少し下げれば叶いそうだ。俺はびっくり箱を扱うように、注意を怠らず姿勢を低くしていく。するとその過程で、刺激臭が鼻をつきバネのように上体が反り返った。

「なんだこれ……」

 尋常ではないその臭いは、侵入したであろう盗人を退けたに違いない。興味本位で開け放ったゴミ袋に恐れをなして逃げたのだ。俺は袋の中身を明朗にするため、おちょぼ口を大きく開口させる。

「う、で?」

 初めは、精巧に作られた悪趣味な人形の腕のように見えた。だが、香ってくるその臭いは紛い物には到底出せぬ代物だ。手首の細さに不釣り合いな肥大した腕は、ゴムを膨らませたように張り詰めていて、全体に黄疸が出ている。毛は抜け落ちているように思えたが、爪は女のように伸びていた。左薬指には当然、結婚指輪がはめられている。

「大地」

 その声は、昨晩夕飯の献立を尋ねられた時と一切遜色がない。だから俺も、いつもと同じように返事を返す。

「母さん、ちゃんと仕舞わないと」
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