彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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無意識下に於ける自覚的行動①

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 私には似ても似つかない妹がいる。生まれながらにして、記憶し動作する能力が長けた妹は、私が暗礁に乗り上げた習い事の尽くを要領よくこなし、親の期待に応えてみせた。私はそんな妹を素直に尊敬する。

「お姉ちゃん、お風呂掃除」

 これほど差のある姉妹を躾ける母親は素晴らしいと思う。得てして、贔屓を気取った子どもから軽蔑を含んだ一瞥を親は受けてしまうはずだ。私がこうしてバレーボールを続けてこられたのは、母親が経験者であることが起因していて、練習内容や試合の結果を報告している間だけは、親子としての関係を確かに実感できた。

 最近、手の肌荒れが酷い。バレーボールという球技の性質上、常日頃から指にテーピングを貼っていても教室で貴賎的な眼差しを向けられることはない。それでも、隠すことへの執着は卑屈さに繋がり、もはやバレーボールなど関係なくテーピングを貼るようになっていた。

「白崎! お前、三年にもなってそれを拾えないのか」

 いくら剥がしても肌に張り付くジャージが鬱陶しい。黒い膝当てに砂が入っているかのように重苦しい。短くした髪型が好きじゃない。今日はどうやら調子が悪いみたいだ。

「すみません。トイレ……」

 ほとんど独り言に近い声をこぼして体育館から出て行く。叱責に嫌気がさして出て行った根性のない生徒に映ったはずだ。その呆気にとられた空気を肌で感じた。だが、汚名を返上する気はさらさらなかった。私は今、ひとえに気持ち悪いのだ。

 校舎のトイレに駆け込んで、洗面台に顔を突っ伏す。嚥下する親鳥さながらにえずきながらも、まるで内容物が伴わない。どれだけいきんでも溜まった便を吐き出さない肛門と似た嘔吐反射は、苦しさだけが募って仕方ない。暫くしてから、生唾を頻りに飲み込むこともなくなり、目の前の鏡で自分の具合を顔色から察するだけの余裕が生まれ始める。やおら流れる顔の汗は、頭皮から浮き出た脂のように気色悪い。不意に手で拭ってしまえば、便器に比肩する不衛生な感覚を覚えた。青ざめた顔をぶら下げながらも、私は長々と占領していたトイレから離れる。やはり、あっけらかんと練習に戻ることは叶わず、喜怒哀楽の感情を皮相にも出せなかった。

「お姉ちゃん」

「わかってる!」

 くつろぎ過ごせるはずの家の中でさえ、言葉は腫れ物めいて態度はより刺々しくなってしまう。理解を求めて内実を吐露するにも、原因が明々朗々と話せないとなると針の筵に座る心地だった。部屋の扉は鉄扉と化して、私を呼ぶ声は朧げにしか届かず、やがて聞こえなくなった。

 あれ以来、暗示を掛けられたように体調は優れず、頻繁にトイレに駆け込むようになった。教室とトイレを往復する姿を物珍しく見るクラスメイトはもういない。誰かと会話を交わすことすら億劫になり、授業を受ける以外の時間は上の空で机に張り付く。この倦怠感は、出鱈目な噂話の屋台骨として働き、看過できない言葉が耳に届く。

「嘘でしょ?」

「ほんとだって! いるらしいよ。お腹が大きくならない人」

 出所不明の噂話は、尾鰭を付けて大きくなり、すべからく断定的に語ってにべもなく貶めてくる。この場合、真実は不純物に過ぎず、虚飾を相手に好き勝手な憶測を嬉々として叩き台に上げるのが常である。そして私の存在意義は、「妊娠」という好奇な話題を産む装置として働くだけの書割に過ぎない。このような扱いを払拭するには、法廷を舞台に言い争う大仰さが求められる。つまり、今の私が噂を翻す術は持ち得ないということだ。
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