彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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ともだちの作り方①

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 言うに憚られる秘密にこそ、語るべき人間性が潜んでおり、それは斯くも恐ろしい。見破ろうとまじまじと睥睨すれば、立場をなくし、如何せんままならない。だからこそ、机に突っ伏して寝息を立てる学生の姿勢を、教師は黙殺しつつ授業を進めているのだ。初めは確かに、口頭での注意を受けた。だがしかし、態度を決して改めなかった。そうすると教師は、いちいち目くじら立てることはなくなり、教職を全うするために視界に入れることすらなくなった。それは正しく、もし仮に、睨みを利かせてもっともらしい弁舌を振る舞う機運をみせれば、すかさず女子更衣室に仕掛けられたカメラの所在をあけすけにし、醜悪な教師の姿を公然と言いふらす次第である。

 対人に於ける衣属は醜聞をどれだけ共有できるかで決まる。それは衣食住に困らなくなった人間の残滓の如き本能のように思う。件の教師や場末のトイレにて闇雲に行われる少女の出産、皆目見当もつかない男女の営みを見聞きして至った賢しら顔は、あらゆる書物を読み耽り、見聞を深めることによって得た慧眼とは畑違いの気持ち悪さがあるようだ。いつからか、空笑いを相槌代りに軽い言葉ばかり吐いていると、述懐すべき本音を失った。俺は慣例的に、他人の秘密事を風の噂と謀り流布する。悪罵はいい。人を謗るのに特別な権利を必要とせず、しっぺ返しを気にして口ごもる奴もいない。堰を切ったように遠慮会釈ない言葉の応酬だけが拠り所であった。

 夜な夜な、空虚を相手に会話を嗜む中年男が閑静な住宅街を闊歩する。ベッドに横臥していれば誰だって辟易とし、目配せの必要なく一様に念じるはずだ。「ここから立ち去れ」と。しかし俺は、中年男の謳歌を心待ちにしていた。言葉を為さない声の塊が遠くの方から聴こえてくる。それは雪だるま式に大きくなっていき、「コラ」や「アホ」などといった、取るに足らない単語の罵倒が軒下を通り過ぎようとしていた。俺は素早く目を閉じ、暗闇にもぐる。深海を泳ぐ魚のように抜き手を切った。浮上はその没我に見合わぬほど早い。口に当てる手に夜気を見た。経年劣化した道路の傾きに足先の踏ん張りが伺える。眼下にばかり向けられた視線は目前など意にも介さない。車両? 人気? 厭世的な気風を放つ中年男にそのような気構えは求めるな。「憎まれっ子世に憚る」ということわざがある通り、俺は中年男にはひたすら大手を振って歩いて欲しい。

 街灯から街灯へ、中年男は根無し草を地でいく。中年男がひっきりなしに飛ばす怪電波は、夕景に聞くラッパの音色より輪にかけて耳障りである。俺はもう一度、目を瞑るかのように集中を高めた。いるはずなのだ。この怪電波を受け取って眉間に深い溝を作る住民が。

 それは貝が呼吸をするかのようにやおら繰り返される。他人の瞬きはひとえに鬱陶しい。中年男が出し抜けに卒倒するようなことがないかぎり、俺のやりたいことは五感を閉ざすことでしかなし得ない、土台無理な集中が求められる。ただ、人間の適応というのは底知れない。何十回という試行のすえ、決して長くはない女子生徒の排泄に悠々と間に合うようになった。これは言うなればザッピングを行うようなもの。中年男はそのリモコンで、無数に散らばる液晶の応答を俺が虎視眈々と待つ状況にある。

 治安を維持するための街灯と、心地よさだけに寄り添った室内灯では目眩を起こすほど落差があった。刺々しさから微睡みへ、まさに瞬く間に視界が切り替わり、目の前で起こっていることについて、正確に把捉しようと他人の目を凝らした。夜目に慣れたせいか、橙色の柔い明かりの中でもぼんやりと丸みを帯びた顔の輪郭が窺える。そして、口元と思しき影が蠢き、陸に上げられた魚さながらに、息を絶え絶えに吐いて止まらない。如何わしさを想起する息遣いであったものの、痙攣気味に顔を激しく左右に振る様から、情事とは乖離した訴えを感じる。つまり、死が間近に迫った生物の必死なる蠕動なのである。事切れるその瞬間を見届けようという、明確な殺意のもとに凝視が続く中、俺は悼む思いでこの視界に鎮座した。時間の流れは酷く淀み、いつまで経っても死の気配を見させ続けられている。

 だが暫くして、ごろりと顔が横を向いて、動かなくなる。徐に降りてきた目蓋が、視界を閉ざす。そこに思案が透けて見えた。それを悔恨と呼ぶべきか、甚だ疑問だが、俺は目の前で起きた出来事を静観することか出来ない。ただ、思わぬ幕間の長さに小首を傾げたい気分であった。今か今かと待っていると、ぽつねんと足元を照らす間接照明と廊下が目前に現れる。ベッドを棺に変えて感傷に耽った目蓋の重みは、その場に凝然と張り付く姿を想像していた。だが、夢遊病の如く目を瞑っている合間に移動し、廊下と思しき場所を歩行するに至っている。俺は状況把握に努めた。等間隔に配された二枚の部屋の扉が左手にあり、壁に突き当たるまでの距離は目測で五メートル前後か。鈍重な歩みにより、過不足なく認識できた。すると、ネジが緩んだように頭は前後左右に揺れ始め、足取りの覚束なさを壁に窘められた。一つ目のドアノブが脇腹を通り過ぎ、二つ目のドアノブに差し当たると、身体は部屋の中に雪崩れ込む。夜目がきくようになった俺でも物の輪郭が掴めない暗闇に包まれ、早々に察した。もはやこの視界に付き合う道理はないと。
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