彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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道草

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 この信号機はなかなかに過保護である。ここまで遅々として通行を阻むとなれば、退屈しのぎに空を仰いでしまう。側溝に蓋をした上が歩道として機能する狭さの道は、人とすれ違うにも首を振って見計らう必要があった。もし仮に、目隠しで自宅まで帰れと言われても、それほど悩まずに歩き出せるような気がする。それは帰巣本能といって差し支えない。景観などあってないようなもので、目が滑る。

 いつものように帰路を歩いていると、等間隔に並んだ街路樹の根本に生えた雑草を順々に食べていく老婆がいた。飢餓を恐れるあまり起こした行動とは思えない。大豆を発酵、抽出して作られる万能調味料である醤油が老婆の片手に握られ、雑草を摘んで口に運ぶまでの過程に於いて、醤油が雑草の味を決めているからだ。一連のキカイな挙措は、阿呆の血が然らしめるところなのだろう。しかし、誰かが老婆の尻を拭かねばならない。それは誰か。道すがらの僕か? それは御免だ。視野狭窄を装い、老婆の横を通り過ぎるぞ。毅然と前を向きながらも、老婆の横を通り抜けようとすると、磁石に吸い寄せられる砂鉄のように右目が動いた。

 やはり老婆は今日も今日とて、雑草を毟って口の中へ運んでいる。僕は遠目であることをいいことに、趣味の悪い人間観察をし始めていた。僕は典型的な待ち人を装うために腕時計を付け、注視の道具にした。通行人はそれほど多くなかったが、皆一様にして老婆の存在を黙殺していく。やがて、小型犬を散歩する淑女がやってきた。僕は人知れず、暗い好奇心を抱いた。それは口に出すのも憚られる祈願であったが、小型犬は小さな身体で飼い主を引っ張り始め、街路樹の側で関取さながらに足を上げた。僕は思わず口を覆う。このような不道徳な気持ちを誰かに悟られてはならない。鼻の膨らみから爪先まで細心の注意を払いながら、睥睨を保つ。たっぷりと尿を散らされた街路樹の元へ、あの老婆が近付いていく。折れ曲がった腰をそのままに膝を落として、両手を一度地面につける。前転しかねない姿勢を維持しつつ、ゆっくりと雑草を毟る格好を整えた。

 老婆が食すであろう雑草に振りかけられたアンモニアの刺激臭はお得意の醤油による味付けを濁すだろうか。そんな馬鹿げたことを思案している間に老婆は雑草を毟り、醤油を傾け始めた。一滴、二滴、三滴と垂らし、老婆は雑草を口へ運ぶ。馬のように歯茎全体を動かして、すり潰している。茶でも立てるような老婆の咀嚼により、醤油の香りはすっかり消えて、雑草が本来持つ青臭さとアンモニアが鼻腔を抜けていく。
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