彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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影より出でし者

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 山と積まれたゴミを片付ける際の目下の懸念は、臭いである。マスクの息苦しさに根をあげて、鼻を出そうものなら忽ち胃袋を掴まれてひっくり返される。端的にいうならば、得体の知れない人間の垢を煮詰めて気化させたような嫌悪して当然の臭気が、ずけずけと鼻先に触れることを想像してもらえると吐き戻す道理も立つだろうか。そしてそれは慣れることはない。十人十色の集積が色や形、臭いを形成し、見世物小屋さながらに毎度驚かせてくれる。管理人が既に腐した後のゴミ部屋を、丹念に真心をもって片せて頂くのが私たちである。

 筆舌を尽くして詳らかに形容する必要のない築年数の経った二階建てのアパートが今回、土足での作業を前提とした仕事場だ。六畳一間という一人暮らしに適した広さから、私を合わせて三人の作業員が派遣された。周辺は知育の玩具のように住宅が密集しており、アパートは隙間を縫うかの如く建てられていた。その弊害だろうか。階段は一つしか立て付けられていない。清掃を頼まれた部屋の所在が二階である事と、明示された部屋番号が暗に示す、角部屋という事実は小言の一つで溜飲を下げる程度の苦労だが、居住者と鉢合わせて顔を見合う煩わしさに嘆息する。もし仮に通り抜けようとすれば、半身にならざるを得ない狭さの通路を、私たちは一列になって進む。

 台所と思しき磨りガラスの一寸先にゴミの影が差し迫っていることが一目でわかる。先頭を切って歩いていた同僚が管理人から預かった鍵で、玄関の扉を開錠する。扉を引き寄せると、まるで波打ち際のようにゴミの端くれが通路に雪崩れた。私は、同僚の脇から土間の様子を伺うと、山の尾根さながらにゴミが広がっているのが伺えた。登頂の一歩目として相応しいなだらかな坂である。名状し難い有象無象のゴミで底上げされた床は、天井との距離感を狭めて異様な圧迫感を生んでいる。一歩進むごとにゴミは足場を崩し、ゴム手袋を着けているとはいえ、不衛生極まりないこの部屋の中で不用意に手を付くのは憚られた。

 錯乱をばら撒いたかのような部屋の無秩序さは、足元を案じるのに事欠かない。手記と思しきメモ帳が眼下に転がり込み、滑るばかりであった目が好奇を湛えて、記された文章を読み取るべく座視した。

「それはまるで、鯨を想起させる影の一片だった。初めは、動いているのかさえ認識できなかったが、目の前を輪郭が掠めてようやく、回遊を把捉した」

 作品の一編を書き綴ったかのような文章は、私の視線をそぞろに操り、次の行を探して文字を追わせた。

「蛸の足と思しき八又が、鋭利な牙でもって破断された。俺の部屋で縄張り争いが行われているようだ」

 奇々怪界な文章が何ページにも渡って綴られており、私は知らず知らずのうちにメモ帳をポケットの中へ収めた。

 ゴミ一つない理知的な部屋より、踏み場に困るほどのゴミに溢れた部屋の方が審美観は養われ、意図せず醸成された景色の中にこそ、語るべき本質が転がっているはずだ。野ざらしに置かれた食いかけのおにぎりと、恥も外聞もなく放置される未使用のコンドームが連なる様子には、流石の俺でも呆れたが、それ以上にこの煩雑さを愛した。三次元的に広がっていきながら、いずれ宇宙に比肩する広大さを生むだろう。

 事の始まりは何気ない。丸めて投げたティッシュがゴミ箱の口に届かなかった所からだ。誰もが持ち合わせる怠惰な一面が、部屋を湯船の如き扱いに変えた。目一杯に手足を伸ばして横臥する。とりとめのない情報の集積は次第に部屋自体が巨大な脳のような荒唐無稽な感覚を身につけ始めた。

 夜気を含んだ町の静けさに、通行人の話し声が殊更に響き、赤色灯を走らせる警戒音がやけに耳に残る。手持ち無沙汰を嘆くというより、月の満ち欠けに応じた部屋の明るさに胸がすく。深く息を吸い込もうとしたその刹那、顔の半分が影に浸かり、不一な失調を引き起こした。それはさながら、飛行機が横切ったかのような巨大な影であった。俺はすかさず、窓の外へ目を配る。しかし、月が浮かんでいるだけの殺風景な風景があるだけで、いたく興味をひいた影の尻尾を掴み損ねた。それからというもの、偶さか転がっていたメモ帳を肌身離さず持ち、ぽつねんと胡座をかくゴミの山にて、注視を続けた。

 機微を捉えようと肥大する瞳孔と折り目正しく端然に伸びきった背筋は、後学を授かるための聴従的な姿勢である。今が何曜日かも判然としない俺は、月の満ち欠けを頼りに一ヶ月の経過を探った。今宵はネズミに齧られたような月が浮かぶ。白紙だったメモ帳が黒く染まり始めたのは、その次の日からであった。書き初めはそう、「影より出でし者」
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