彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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湯気ないし煙

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 風説は時が経つにつれ、廃れていくものだ。例を一つ挙げるのならば、ペットボトルに水を入れ、敷地を囲うという野良猫を退けるための方法だろう。全国的に盲信され、陳腐化するまで長い事実誤認があり、情報に頓着がない老いぼれは生垣にペットボトルを飾り続けている。ただ、仕切りは確かに大事なのだ。国境という大別な境を始め、個々が所有する土地の権利まで峻別した通り、貨幣を引き換えに与えられた仕切りを無視して畜生にふらりと侵入されれば、癪に障ってもおかしくない。

 しかし、愛玩動物の犬の生理現象をまるで未必の故意を装った嫌がらせと判断して蹴り飛ばす了見は、甚だ度を超えている。家の垣根に人間が小便を垂れているかのように癇癪を起こす男の怒りは、傍目に見て蛮行といって差し支えない。本能と理性を折衷してこそ、人間らしい。男の主張は本能に寄り添い過ぎたせいか、著しく思慮分別のない獣の如き野性味を放った。男が根城とする一軒家の前を通るとき、近隣住民は矢尻を警戒するかのように間合いを測って歩く。もはや町の厄介者であり、男への恨み節を分け合った。

 だがそんな、陰気な口々が呆気にとられる出来事が起きた。深夜零時過ぎである。朦々と煙を焚いて赤い炎を纏った男の家は、近隣住民を外へ連れ出した。そのうち、赤色灯と注意喚起の音を伴い消防車がやってきて、消火活動にあたる。男の家の顛末に注視を怠らない近隣住民は、誰に話しかけるでもなく一様に口を動かしながら、口端を微かに上げていた。

 出火下となった男の家は全焼という憂き目を見たが、近隣住民の家に延焼することなく鎮火した。男が病院に担ぎ込まれた事実だけを頭に入れて、その後の安否なぞ近隣住民は気にも止めない。眉根を歪ませて男の動向を追っていた物見高さは灰となったのだ。

 骨組みと家の垣根を残して微かに墨の匂いを漂わせる奇矯な通りは、朝のジョギングから始まり、学生が通学路として歩きだす。そのうち、愛玩動物を散歩する近隣住民の姿が散見され始めた。糞を溜める袋と小便を流す水の入ったペットボトルを持った飼い主は、犬の尻を叩いて唆す。そこが男の家の垣根であることを承知してのことだ。犬の肛門から捻り出されて間もない糞が、冷たい風に当てられて湯気を吐き出す。鼻をつまんでやり過ごす他ないその呼気に、吸い寄せられるようにして老齢が現れる。飼い主は老齢の存在に気付かず、惜別を込めて糞を置いて立ち去ろうとした。その直後、老齢は目敏く問いただす。

「おい、アンタ。犬の糞を置いていくなよ」

 思わぬ一声に飼い主は、乱痴気ぎみに足踏みする。振り向きざま、飼い主は直下に判断を下す。男に今まで送っていた怪訝な目つきに値する人物であると。
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