彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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火付け役①

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 正味十秒、ブレーキに足を置いておくだけでいい。しかし、運転手は苛立ってハンドルを小突く。対向車はすれ違い様、頭を下げて運転手の心意気を立てた。ただし、それで溜飲を下げて颯爽と走り去るなどといった手切れにする関係に至らず、運転手は荒々しくアクセルを踏み込みながらハンドルを切った。神木の枝を避けるために。歩行者の子どもは枝を頭上にやり過ごし、大人は車両と同じように迂回する。近隣住民は四方山話のついでに吐露する。

「折れた枝や枯れ葉を掃除しているのが私たちなのはおかしいって!」

「誰かが言ってやらないと……」

 そう語りつつも、一人一人がまるでごちるかのように伏し目がちに誰も顔を見合わせようとはしなかった。

 これより遥か昔、この地方に大地震が襲った。被害に胸を痛めた当時の天皇の勅願により、自身を祭神として創建された神社が、八岡神社である。祭事の際は沢山の模擬店が並び、老若男女が大挙して押し寄せる。気立てがいい神主の雰囲気に巫女も華やいで見えるが、神社の裏手に住む近隣住民だけは件の通り、憎き仇の如く頭に思い浮かべては唾棄した。

 切り倒せと磊落に頼むことはしない。だが、道路まで手を広げた枝の剪定を願って止まない。あくまでも受動的な態度に行き場を失った想念は形骸化し、白々しく嘆息が吐かれる。しかし、今日は一味違った。獣道が一夜にして舗装されたかのように虚を突かれたのだ。常日頃から煙たく思い、賽銭箱へ銭を放るのも癪に障る生活の障害が取り除かれ、広々とした道路の光景は通りがかった人々の足を悉く止めた。「あそこ、知ってる?」このような枕詞を手土産に、近隣住民は一様に話題に上げる。あの神木の枝が切り落とされた、と。

 授業の終わりを告げるチャイムの音は、とりとめのない会話で教室を埋め尽くす合図である。その喧騒は、人が大挙する駅前の喧騒と大差ない。耳を傾けて聞くべき会話など、存在しないように思えたが、とりわけ耳目を集める男子学生が一人いた。周りに四人、クラスメイトを従えて、出色した求心力でもって無駄口を叩かせない。その男子学生が口にした出来事は、徐に声を潜めた低い声から始まり、次第に脂が乗り出す舌の根に合わせて、両腕で臨場感を演出し始めた。

「夜中、本当に夜遅い時間だよ。皆が寝静まったのを見計らってさ」

 扇を広げるかのように両腕を身体の横に広げた後、頭上で勢いよく手を叩き、枝切り鋏の形を再現する。

「こんな風に、神社からはみ出た木の枝を全部、取り除いたってわけ」

 一段と広がった鼻の穴には誇らしさが詰まっていた。ただ、聴衆の反応が芳しくない。当たり前である。学生の身分を理由に墓石を蹴り倒すことはしないし、賽銭箱に手を伸ばす罰当たりな行いに対して白黒を下せるだけの思慮分別はある。事の重大さに未だ気付かない男子学生は、武勇伝のように語ったその不謹慎さ故に、蔑視を受けた。
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