彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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火付け役②

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「よしんば神木の枝を切るとしても、実の子にそれを強要するなんて外道以下だ」

 誰が明言したか定かでない。だがそれは、まるで風邪が広まるかのように伝染していき、男子学生の父親は石を投げるのに相応しい人間として認識されてしまう。行きつけの床屋の主人とは作業中の世間話が常となっていたが、口を縫われたかと誤解するほどの沈黙具合で接客をされた。その異様さは、青年会で面識があったクリーニング屋を経営する男の態度からも感じ取っており、スーパーで偶さか居合わせて挨拶をしようと近寄れば、針で突かれるかのように付かず離れずの関係を維持し続け、終ぞ声を掛けることに至らなかった。

「なんで喋った」

 刃物のような冷気を纏って、口答えの一切を一刀両断した。男子学生は示すべき態度を汲み取って、両足を折り畳み床に額をつける。

「どうして喋った」

 虚実をとりまぜて話すような器用さは男子学生にとって、毒を飲むより勇気が必要であった。だから、どのような身の処し方でクラスメイトに告げたかを一語一句、逃さず再現する。

「そうか、まるで自分がやったかのように吹聴したんだな」

 頭を下げるばかりの男子学生の肩へ、父親は手を置いた。社会に於いて皆、それぞれに役割がある。本来なら目を背けて然るべき事柄に対処する人間は必ず存在し、それをひとえに損な役回りだと嘆くのはあまりに悲観的だ。自身の役目がなければ機能不全に陥る程度に遠大な過信をした上で、励むしかないのではないか。神木の枝を切り落とす不遜なる行いが居心地を悪くしたと、切歯扼腕するぐらいなら誇りを掲げて自惚れてしまえ。今はっきりと父親は、自分がしたことへの折り合いをつけた。

 癇癪玉のように捲し立てて理不尽な叱責を行う男の姿を、些か口に出すには憚られる呼称でもって括った。「老害」という二文字は、鬱積した負の感情を発散するために生まれたのだろう。いつ如何なる時代に於いても町の厄介者は存在する。閑静な住宅街の中で、猫の縄張り争いさながらの威嚇がこだました。恐らく、あの民家の前を何も知らずに通った人間がいたのだろう。矢のように飛んでくる怒号は、監視カメラから発せられたかと勘違いするほど、男の巡視に暇がない。住民はほとほと呆れ果て、不意の警告音を避けるために男の民家の前をまるで禁足地のように扱った。あまりに正当性を欠いた人間の行動をみすみす見逃すことは出来ない。火付け役として、父親は心構えを既に済ませている。

 直ぐに鎮火されて五体満足な男の姿を誰も見たくないだろう。だから、夜の深い時間を選んで民家に着火した。男と同じだけ歳をとってくすんだ木造建築は瞬く間に炎に包まれ、異変を感じ取った住民が寝巻き姿で外に飛び出てくる。緊急車両を呼ぶなどといった救命活動を蔑ろにして皆一様に仁王立つ。そして、一人の年増の女がぽつりと呟いた。

「もう少し、もう少ししたら呼ぼう」
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