彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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搦手②

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 雨風に晒されて通年、湿ったような色味をする木造建築のアパートは、いくら削れども黒ずみが顔を出し、鉄で組まれた階段は、来客を知らせるチャイムと遜色ない騒音を奏でる。

「聴いた通りの古めかしさだ」

 彼は自前のカメラで夕暮れに照らされたアパートの外観を撮影した。

「暗くないですか?」

「どうせ、モザイク処理するんだ。鮮明でなくてもいいんだよ」

 彼が行った事故物件を聖地とし、巡礼する者がいる。土地や事件事故が記事の中で明記されることはないが、大体は予測できる範疇にあり、探し出すことは難しくない。しかし今回に限って言えば、見つけることは苦心するはずだ。

「ギシ」

 声に出せばそんな音だ。階段を上がり、渡り廊下を歩いていく。例の物件は一番奥の部屋になる。

「随分、空室が多いね」

 彼は道中の抜け殻となった表札を見て歩いたらしい。

「あぁ、表札を出していないだけですよ」

 このアパートの居住者にとって日の下は明るすぎる。私は大家から預かった鍵をポケットから取り出すと、一○四号室の鍵を解錠した。見かけは他の部屋と変わりなく、大家が頑なに住まわせない理由が私の目からは見当たらない。

「なるほど。普通だね」

 彼は頭を一掻きして、部屋に上がる。西向きの角部屋ということもあり、熟れた太陽の日差しが足元に伸びる。渡り廊下に面するキッチンの銀色のシンクに、真っ赤な日溜まりが出来ていた。一歩奥に進むと、六畳一間の部屋が暗闇に包まれたままカビ臭さを放っている。窓は雨戸によって閉め切られていて、私は壁に備え付けられたスイッチを押した。電球が目を開き、部屋は明らかになる。

「やはり普通だ」

 私の直裁な誘引に肩を落とすかのように彼は、「普通」を連呼する。私は思わず、粗野に言葉を吐いてしまった。

「そんな、もっと隈なく探してみて下さいよ!」

「……」

 彼は背中を丸めて、女の買い物に付き合う男の気怠さを湛える。そして、部屋の襖すら開けずにしらみつぶしに部屋を見て回る。これ以上彼を此処に留まらせることは出来そうにない。そう悟り、私は玄関に向き直る。

「?」

 キッチンの窓に蜥蜴でも張り付いたか。部屋にいる私の足元に影が横切る。ゆっくりと、視線を上げていくと、息が詰まって身体は蠕動する。地蔵のように直立不動の人影が、燃え尽きそうな太陽の日差しを遮っている。

「大家だ」

 私の機微を受け取った大家が見張りに出張ったのだ。そうに違いない!

「本当にそうかな?」

「え?」

「だって、あれは影じゃないか。君があれを断定することは可笑しな話だ」

 そこで何があり、どうしてそうなったのか。真偽を詳らかにする記者としての舌鋒が私の喉元に突きつけられた。私はそれを遠ざけることができなかった。のうのうと阿呆のように媚びてきた私が彼の慧眼から逃れられる訳がない。

「確かめてみようじゃないか」

 私はそぞろに指輪の跡をなぞった。
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