彼岸よ、ララバイ!

駄犬

文字の大きさ
上 下
35 / 139

ラビットヒート

しおりを挟む
 壁画として居直ったシャッター街のどうにも喧しい夜泣きが、伽藍の道路にこだまする。都市でひとしきり悪さをした夜風が郊外へふらりと立ち寄ったようだ。私は胸に息苦しさを感じ、寝返りを幾度となく打った。正しい寝相を探し求める私の苦悩に、身震いする冷蔵庫が床を伝ってベッドの足へかじりつく。何もかもが、快然たる眠りにつく事を許してくれない。そぞろに携帯電話を操作してしまう悪癖は、自ら眠気を遠ざける行為に違いないが、沈黙に耐えきれず手が伸びる。携帯電話の液晶画面は、瞳孔の収縮を促し、頭は冴えていくばかりだ。

 ふと明日の予定を列挙すれば、焦りが額に滲み、布団をかぶった。やぶれかぶれに睡眠をとる毎日は、慢性的な鼻づまりも相まって、今まで苦手としてきていた朝の起床をより確固たるものにした。

 このベッドは棺桶である。私は仰向けになると足を規律よく並べて、口を結んだ。これから先は、身じろぎ一つしない。息を引き取った遺体さながらに凝然とするのだ。そんな私の意気込みに、何処の馬の骨か知れない何者かが右手を握った。私は烈火の如き怒りをもとに、おはじきのように突っぱねた。

「……」

 シングルベッドの上は、一人であった。情事を楽しむ相手はいない。机に向かう椅子が老醜の軋みを立て、クローゼットでは鈴生りの服たちが暴れだす。私はこのざわめきから身を守ろうと小さく丸まり、奇々怪界が去るのを待とうとした。しかし、笑みとおぼしき吐息が耳にかかり、私はどこに逃げ場がない事を悟った。

(誰か……)

 上空を優雅に旋回する黒い風が、私をせせら笑う。孤独に耐えていると、海から釣り上げられる明星が空を白く染め上げ、夜の帳を追い払う。身の回りに起きていた不埒な悪戯も、蜘蛛の子を散らすように過ぎ去って、漸く私は布団から顔を出す事ができた。あらぬ香気を嗅がれかねないシーツの汗染みは、私がどれだけ苦痛を感じていたかを象っていた。

「それはすごいね」

 向こうの彼が、浅黒い腕を組んで感心したように言った。四角いテーブルによって作られた隔たりは、私達が男女の仲である事を考えると容易く乗り越えていける距離にあったが、釣竿のように背中をしならせながら彼の顔が迫る度に、手元の紅茶は冷めていく。

「もしその現象を録画できれば、一攫千金だな」

 冗談めかした軽い調子で私が見舞われた事象を見下して、指で数を数える下卑た所作も見せる。恐らく、気を引く為の世迷言を拵えたと私を腐しているのだろう。甚だ癪に触る。

「今度会う時はさ、携帯電話で自分の寝る姿を撮ってよ」

 もはや私への労りなどない。今目の前にあるのは、見世物小屋を覗くかのような好奇心だけだ。彼は勇ましく財布をポケットから取り出すと、伝票を待って席から立ち上がった。

「撮れたら、見てあげるから」

 どうやら私の土産話はワンコインで済む程度の手頃な値段であったらしい。颯爽とレジへ向かう彼の袖を掴むような、いじらしい女にも私はなれない。只々、その背中を目で追うだけの物言わぬ地蔵だ。だからこそ、自ら行動を起こす際には、憂慮や先行きを案じる遠慮深さから距離を置く事ができる。

 果てなき夜空の隅で、眠気に相槌を打つ街灯の横を我が物で通りすぎる黒い風を勃然と温めたのは、雲の下腹を突かんと奔走する火柱であった。空気をしがむ冥府のかがり火に人は目を奪われる。

「火事だ!」

 多くの焦りを含んだ叫び声が、周囲から聞こえ出し、蠱惑的な光景である事を改めて知る。原初から親しまれてきた火の揺めきは、胸に込み上げていた形容し難い不満を灰に変える力があった。もし仮に、この火の中へ飛び込んでしまえたら、これから経験するはずのあらゆる苦痛から永遠に解放されるのだろう。

「消防車……消防車は呼んだか?!」

 そんな火を消そうと勤しむ男の顔に鉄拳を下し、忌まわしい赤い車の登場を遅れせたかったが、出過ぎた真似になる。今は流れに身を任せよう。

 一軒の二階建てアパートから出火したと、仔細に状況を伝える声が右隣から聞こえてきて、私は微笑んだ。土地の埋め合わせに建てられたアパートをこの町の汚点であるかのように睨みつけ、被害がアパートだけに済む事をひたすら願う姿が散見される。

 私にとってこの火事は、彼を焚き付ける事象に過ぎず、夜毎悩まされてきた現象へけりを付ける一つの方法でもあった。彼に会ったら、こう言おう。

「貴方のおかげで火の手から逃れる事ができた。ありがとう。愛してる」

 そして、私が自分の部屋に火をつける様子を映した動画を見せるのだ。
しおりを挟む

処理中です...