彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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ひとごと③

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「おい」

 もはやいつ手が出てもおかしくない語気の強さを露呈するサッカー部顧問を前にした堺は、眼下の地面と見つめ合うのをやめる。そして徐に顔を上げていき、目と鼻の先にある怒りの導火線をみごとに引っこ抜いた。

「!」

 教職という立場を利用して大人が無抵抗の子どもを殴る姿は、醜悪さの権化であり、俺はそぞろに顔を背けていた。三島は携帯電話の画面を差し置いて、肉眼での観察に気炎を吐き、思い通りに事が運んでいる様子にいたく歓喜しているようだった。そして、サッカー部顧問に背中を押された堺が、校舎を物陰にして息を潜める俺達の方に向かって歩いてくる。三島は慌てて携帯電話をジャージのズボンに突っ込んで、素知らぬ顔を装いこの場を離れた。

「堺の顔にモザイクは入れた方がいいんじゃないか?」

 広がる火の手の速さを予期した葛城は、飛び火を憂いて施すべき最低限の準備を怠らない。

「臨場感がなくなるな……」

 三島は映像作品の編集に口を出すかのような身軽さで録画した動画を幾度も反芻している。俺はそんな三島と葛城の様子を横目に、これから先起こるであろう展開を頭の中で組み立てては崩し、実際に辿るかもしれない導線の確保に走る。不足の事態をできるだけ避けようと無数の想定に耽った性質は、「小心者」と形容して然るべきだが、それが俺の処刑術だった。

 インターネットへ放流する前に、俺は三島から出来上がった動画の素材を見せてもらった。傾きつつある太陽の日差しが広げる、校舎の影の翼下に教師と生徒の二人が佇む。人の目を嫌って、無機質な校舎の片隅に陣取った様子から、これから起きる不吉な出来事の前触れが垣間見える。

「て、な」

 何を言っているのか聞き取りづらかったが、怒気と思しき言葉の強さは充分に感じ取れた。そして、記憶に新しいサッカー部顧問の悪辣が飛び出す。

「どうよ」

 三島は作品への感想を求めるように俺から気持ちの如何を問うてきた。興奮ぎみに震える手の煽りを受けたカメラは終始、小刻みに上下左右に動き続け、撮影者の心情と合わせて生々しい光景が形成されている。そこに偶さか居合わせて、撮影に挑んだかのような臨場感が意図せず表れており、偶然の産物ではあるものの、首尾良く動画が社会に拡散されていくのが目に見えた。

「いいと思うよ」

 素直な感想を口にすると、三島は己が作品の評価を喜んだ。この際、善意か悪意かを分ける必要はない。形骸化の一途を辿っていたはずの体育会系の残党が排除され、健康的な部活動が始まるのだと思うと、自然と笑みが溢れてくる。

「やめる必要はなかったな」

 葛城が見せる微笑は、曇天の隙間に差し込む陽光を浴びたかのような朗らかさに満ちていて、湿った嘆息とは袂を分かつ。これから先に待つ明るい未来への指針が懐を温める。死んだ川の凪いだ水面に足を滑らせるアメンボさながらの身軽さにひとえに感謝した。
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