彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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——に至る病②

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 しずしずと眼下の町並みを眺め、憂鬱な気分を慰めていれば、赤に変わったばかりの信号機がふいに目に飛び込んだ。交通量は著しく少なく、救急車でもないかぎりそこを通る一般車はない。にも関わらず、僕の関心は期せずしてそこに向き、まんじりと注視する。そんな折、まるで狙ったかのように影が横切った。

(なんだ?)

 本来なら信号無視を軽蔑するところだが、その影は車よりこじんまりとしていて、バイクのような二輪車の疾走とはまた違う。もっと……そう、それはまるで人のような形をしていた。だが、現実離れした速度で道路を走る人間など存在するはずがない。ならばアレは一体なんだ?

 額に汗が流れ落ち、頬から顎にかけて轍を作り、足先を濡らす。一つや二つではない。こんこんと汗は止まらず、息切れも催した矢先、僕は気付くのである。正体不明な影は確実に此方へ向かって接近してきていることを。

「おいおい」

 奇妙な影は右左と道を曲がりながら、目標をこのアパートに定め最短距離を走っている。僕は屋上を追われるように離れ、階段を下っていく。鉄の骨が通るアスファルトの通路は、齷齪と動かす足音をよく響かせる。騒々しくもあったが、階下から聞こえてくる階段を駆け上がってくる足音に比べれば、遥かに慎ましい。五階の角部屋が僕の自宅で、通路を長く歩く焦燥は背中を一押し、半ば走っていると言っても過言ではない風の切り方で、玄関の扉に飛び付いた。

 抜き足差し足で自宅を出たのを台無しにする騒々しさで扉を開け、靴を脱ぎ、自室に繋がる廊下を走り抜けた。虚を突く忙しなさとなって、寝室で寝息を立てる両親の耳へ届いたはずだが、僕はそんなことにかまけて悠然と歩いていられなかったのだ。あの人影から逃れる為には。

 ベッドの中を唯一無二の避難所に見立て、僕は布団を頭から被った。今もなお聞こえる足音は、切迫から生み出された幻聴か。通路の端から端まで走っているような足音が、いくつもの壁を無視して頭の中に響き渡る。寝てしまえばいい。悪い夢だったと言える朝を迎えられるはずだ。

 しかし、耳を塞いでも足音は止むことを知らず、あまつさえ通路を往復していたその足音が、玄関をすり抜けて自室の廊下にまで迫り、扉の前で足踏みを繰り返す。

(何で? どうして、家に入ってきてるんだよ。どうして、母さんも父さんも気づかないんだ)

 あらぬ怒りを両親に向けて精神的に掛かる負荷を和らげようとしたが、改善の予兆は見られず、ひたすら目を瞑って耐え続けるしかなかった。ただ、前向きな諦観は騒々しい足音に対する恐怖を随意に剥落させていき、やがて目蓋が重くなり始めた。影は何故か、扉の前に留まって、決して踏み越えようとはしてこない。自ら一線を引き、僕の出方を窺っているようだった。
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