彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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——に至る病③

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 あれほど激しかった動悸は揺り籠に揺られているかのように落ち着きを取りすと、意識は睡魔のまにまに溶け出して、僕は深く息を吸い込んだ。時速十キロで走る長編成の貨物列車を見送った後のような、長い長いまばたきを終えて、鳥の囀りが耳の隙間を縫って届く。

「朝……か」

 惰眠を貪った身体の疲労感は、節々に鈍い痛みを募らせている。全身を伸縮性のあるゴムのように伸ばした直後、もはや聞き慣れてしまった足音へ、ごく自然に、当たり前のように言う。

「何時までそこにいる気だよ」

 足踏みはひがな一夜、行われていたようで僕も流石に呆れ果てる。眠気眼は天井をあやふやに霞ませ、頭もろくに働かない。酸素不足によって陥ったと勘違いし、大きく口を開けて、息をとくに吸い込んだ。それは霜を払い落とす為の膨張であり、出し抜けに耳へ届いたもう一つの足音が針のように突く。すると、弛緩した身体が茹で蛸のように瞬く間に硬直し、二つの足音が扉の前で重なるのを固唾を飲んで凝視する。

「今日から学校へ行くんでしょ。起きなゃ駄目よ」

 遅刻を見越した母親の老婆心が、ドアノブを下ろし、叩き起こそうと扉を引く。僕は無意識のうちにベッドから飛び起きて、産声を上げたばかりの太陽によって白く染まる肌色のカーテンを開ける。ゴンドラのように景色を楽しむ出窓は、強い雨風や外気を防ぐ雨戸は取り付けられておらず、「逃げなくては」という恣意的な考えによって支配された身体は、尋常ならざる力を発揮して、いとも簡単に出窓の硝子を破った。

 正体が知れない影に追い出された僕は、マンションの五階から飛び降りる。風を一気呵成に巻きながら落下していく。目は開けていられず、浮き上がった臓器は遊園地で乗ったジェットコースターを思い出す。それから何秒後かに僕は、身体の半分を吹き飛ばされるかのような衝撃で目が開く。頭は至って冷静だった。手を遅れと言っていい身体の案配に気を回せるほどの冷静さである。首から下への電気信号が途絶えて、打ち首にされたような酷い感覚だ。頬に温かいものが触れて、ぐるりと目玉を転がす。

「ん」

 ルビーが溶けたような、慈しむべき美しい深紅の色が地面に広がっていく。一体どうしてこうなった。答えは目の前に出ている。ぴちゃぴちゃと潮溜まりを踏み均すように、僕の血液を飛沫させる無邪気な影法師が原因だ——
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