彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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隣人④

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 発汗したように乱れた声の横で、重苦しい蝶番が鳴いた。私は運転席の窓を開けて首を伸ばす。すると、アパートの二階で玄関の扉を開けたばかりの男の姿が目に入り、対人関係を円滑に促す、行きずりの笑顔を挨拶代わりに繕った。

「ここ、停めていて大丈夫ですか?」

 警察が此処を偶さか通りがかれば、点数稼ぎに走るかも知れない。そんな気掛かりを胸に取材へ臨むのはあまりに煩わしい。

「ええ。滅多に車は通らないし、ちゃんと通り抜けできますよ」

 近隣住民の皆様方の寛大なお心に甘えて、私は車のエンジンを切った。

「靴、邪魔ですよね。今どかしますから」

 目の前の三和土で、兵藤は齷齪と靴を整え始め、寒風が吹き抜ける中、通路でその姿を見守る。正味一分ほどだろうか。履き潰して久しいであろうスニーカーを壁際に追いやって、私が靴を脱げるように設えた。もはや残滓と言い換えても問題はなさそうな、壁際の靴を横目に、一言呟く。

「お邪魔します」

 入居してから一度も使われていないと思われる、キッチンのコンロの上にはゴミ袋が置かれており、引き戸で仕切られたワンルームの部屋もまた、ゴミ屋敷一歩手前の散らかり方をしていた。

「当時は鬱陶しかったけど、今なら気兼ねなく取材も受け入れられますよ。嬉しいなぁ」

 忌まわしい記憶を掘り返すつもりでいた私の気遣いなど、全くもって意に介さない兵藤の軽薄さは、他人が家の敷居を跨ぐ上で試される体裁について、雑然とした部屋が示す通りまるで頓着していない。爪先立ちをすれば、礼節を欠いた身のこなしになる。靴下が真っ黒になることを覚悟し、なくなく部屋の中を歩く。

「兵藤さんは事件だと思われているのですね?」

 膝を突き合わせ、畏まって取材をするという姿勢はなくなり、兵藤の背中に半ば投げやりに質問をぶつけた。

「それはそうでしょう。これを見て下さいよ」

 兵藤はそう言って、右手を私の前に差し出した。人差し指と中指の第一関節から先がなく、樹木が傷を塞ぐように丸まって小指より短い指先となっていた。

「外に出歩くときは、手袋を着けてますよ」

 至って平静に当時の事故で負った傷を語る様は、過ぎた年月によって咀嚼し終わった人間の諦めのようなものを感じた。もう一歩、踏み込んで話を訊いても、煙に巻いて私を誑かすことはないはずだ。

「今でも鮮明に覚えていますか? 爆発の瞬間は」

 手を皿にして顎を乗せると、より深い回顧の兆しを見せた。だが間もなくして、兵藤はあっけらかんと言った。

「んー、あまりに突然の出来事で朧げにしか覚えていませんね」
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