彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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道化のガイダンス②

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「……」

 ありもしない約束の時間に遅れがちな甲斐性なしを早足に託してその場を去る。それは、“恋人の元へ向かう男”としての額面であるはずだった。

「遊びませんか? 出血サービスの――円で」

 私が所在無さげに見えたのなら、それは素晴らしい慧眼だ。その眼に免じて、快く誘いを受けよう。紳士の立ち振る舞いに精通している訳ではない。それでも、口に泡を溜めるような口喧しさや、乳飲み子に比肩する手足の落ち着きの無さは、紳士の肩書きとはまるで合致しないことはわかる。惹句を語る看板に猥雑な電飾がゴテゴテと飾られた歓楽街の通りを、私は彼女を連れて歩く。その歳の差にきっと、帰路の途中でケーキを買いに来た兄妹と区別するだろう。

 ホテルに入っていく姿は極めて不健全なものだったが、浮き足立った人々の群れの中に、事を危ぶむような清廉潔白な人間はいなかった。彼女はホテルの門構えにあからさまに喜んでみせる。景観の豪華さを追って選んだホテルの利用料金はこの際、度外視である。何故なら、このホテルで過ごす時間が私の貧相な生活に終止符を打ち、少ない金を持て余すことなど馬鹿馬鹿しかったからだ。

「楽しみ」

 茶色い後ろ髪を肩で跳ねさせ喜ぶ彼女は、盛りのついた犬のように見え、廊下に敷かれた唐草文模様のペルシャ絨毯に小便をひっかけまいか齷齪する主人の憂いを味わう。私はたしなめるように言った。

「まあまあ。楽しみと言うには早すぎるよ」

 談笑と呼ぶには些か、下品さが付き纏い、この先に待つ劣情にひたすら胸が躍った。一○五号室。それが今夜、金銭の授受によって結ばれた私と彼女の関係を成就させる一室になる。扉を開けば、真っ先に飛び込んできたのは、一面がほぼガラス張りの窓だった。如何わしい気持ちが瞬く間に霧が晴れるかのようにして消え去って、ヤモリのように窓へ引っ付く彼女の後ろ姿に親近感を抱く。

「うわー、綺麗」

 私は期せずして、彼女の心を手玉にとった。これから先にある情事がより親密な意義のあるものとして昇華する様を想像する。

「こんな素敵なところで食事もとれるなんて」

「そうだね」

 如何にも優男らしい言葉と語気を自ら吐いたことに歯が浮くような気分に晒されながらも、私は彼女への礼儀として腹を据える。私達は備え付けられたテーブルを挟み、ホテルのメニューを品定めし始めた。満面の笑みを浮かべる彼女に釣られて、私も活字だけで表現される料理の説明から、思わず涎を垂らしかけた。廃棄寸前のスーパーの弁当に食い付くばかりであった私にとって、主役となる具材の記載は勿論、味付けも叙情的に記された料理の一群と料金は、これから先決して拝むことがないものばかりであった。瞬く間に熱を持つ目頭を抑えつつ、昔から好物であったハンバーグに注意が向く。他にも好奇な品目はあったものの、これが最後の晩餐になることを考えれば、想像が付かない料理を注文するのは憚られた。
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