彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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黒い影の案内人①

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 消失点など存在しない。轟く雷鳴の光によって、瞬間白く染まったような世界が連綿とあり続ける。光と影によって輪郭を捉えられていた世界の形は、風を直視するより難しかった。前後左右の感覚も剥落し、何を手掛かりにして認知機能を働かせるかが問題である。暫し考えた結果、この思索こそが自分を自分たらしめる自己の肯定なのだと悟った。矢先、一抹に思う。捉えることができないだけでそこらじょうの空間に、同等の他者の自己が存在しているのではないかと。そんな出口が見えない思考の流れを断ち切るかのように、銀色の体躯が目の前に現れた。

 季節の折に熱くも冷くもなる無機物が持つ特有の染まりやすさは、この世界に於いてあまり意味を持たない。只々、そこに存在しているだけの鉄の塊である。レールの上を走ることを見越した細長いデザイン性に合わせて、シンプルな橙色の二つの線を体躯に施すその審美眼は、日常に溶け込むことを意識した機能面に焦点を当てており、わざわざ悪罵を用いて貶すほどの出来にはない。橙色の線に沿って手を滑らせていると、ポッカリと口を開けた自動扉に辿り着く。遠方であれ、近場であれ、平等に客の足となって送り届けるソレに、半ば逃げるようにして駆け込んだ。相当数の吊革が、閑古鳥の鳴き声に人知れず揺れる。

「……」

 森閑とした空気が辺りから立ち込め、拠り所を求めて左右に顔を振った。その直後、背後の扉が空気を吐き出しながら、やおら閉まっていく。後戻りできない決定を下したことを告げるベルの音が鳴り響き、無骨な機械音と共に、足を掬われかけた。

「大丈夫ですか?」

 目視で確認した通り、人はいなかったはずだ。だがしかし、体勢を崩した脇の間に見知らぬ腕が入り込んで、どうにか倒れずに済んだ。

「申し訳ありません。助かりました」

 奇妙な体験に泡を吹き、まごまごと手足の動かし方すら忘れる前に、感謝の言葉を述べた。紳士の嗜みに全身を黒に染めた彼の風体は、外連味とある種の説得力を獲得しており、怒声を上げて人の欠点につけ込むような狭量な心遣いは持ち合わせていないように見える。

「いえいえ。困っている人を見たら、助けなくてはいけません」

 その見識は正しかったようだ。言葉は親切を語りながら、胡散臭い笑顔などに頼らない。抑揚を抑えた低い声を操る彼の振る舞いに、此方も誠実さを持って付き合う気概が生まれた。座席に座ることを勧められれば、素直にそれに従って頭を縦に振った。と同時に、幕が下りたかのように窓の外が黒く染まり、車内の照明が一斉に点く。対面の窓は鏡のように状況を反射し、首周りがよれた半袖のシャツに袖を通す質素な人間が、隣に座る紳士をよく映えさせる。

「何処へ行くのですか?」

 彼に行く先を訊ねたものの、伏せた顔を持ち上げる力は、バネのように軟化した首から窺えなかった。耳をぞばだてれば、寝息のような小さい息遣いすら聞こえてきて、あまり良い兆候とは思えない調子を湛える。

「大丈夫ですか?」

 これは実直に彼の身を案じたわけではない。ひとえに返答をもらうための自己中心的な心模様のみで、婉曲的な言い回しながら厚かましく身体を揺す。思慮分別のつかない稚児のような駄々は、肉親ですら鬱陶しく感じるだろう。だがしかし、それ以外に彼の反応を引き出す手段を持ち合わせていなかったのだ。このような行いにも彼は反応を示さず、可愛げがない駄々として宙ぶらりんになった。左に傾きがちな頭を右へ傾けたのは、彼を視界から外す為であり、物事が自分の思う通りに進まなかったことを口惜しく感じた者が往々にする、拗ねた仕草だ。

「来ますよ」

 極めて利己的な態度を見計らったかのように、彼は慮外に言った。「来ますよ」と。窓の外で起こる風切り音は、この乗り物が実際に走っていたことを知らせる。そして、白と黒で構成された窓の外の景色は醸成に色づき始める。
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