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黒い影の案内人②
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恐らく一日のなかでもっとも街が暗澹とした時に目を覚ましたように思う。重要な判断に際して常に保守的な態度を崩さずにいれば、変化に対する耐性は著しく損ない、人見知りを理由にして母の影に隠れてきた。週末に起因する街の喧騒は、外出を億劫に思っていた幼少期の頃から忌み嫌ってきた。それでも、母に連れられて、熱を帯びるアスファルトの歩道を歩かされた。辺りには、人の吐いた二酸化炭素がひしめき、ふいに吹き抜ける風は人の体温と似て汚らしいとさえ感じる。
殊更に人がごった返す場所の一つに、開業したばかりの大型ショッピングモールがあった。子どもが喜ぶ定番のヒーローショーが開催されると知り、母は恐らく息子である自分が喜ぶと思って連れてきたのだろう。単純な善悪の線引きによって繰り広げられる、段取りが決まった衝突を子どもながらに冷めた目で見ていた。ひいては、同じ方向を見て拳を振り上げる周囲の熱気に嫌気が差していたことも相まって、露呈する母の腹積りは沈鬱とした感情の源泉となった。そんな息子の天邪鬼さをみごとに見落としていた母は、無邪気にも言うのである。
「見よっか」
青空の下で白く光る舞台に向かって、整然と並べられた屋外ならではのベンチから声を出して応援を送る同年代の聴衆に混ざる姿が醜悪に映り、首を横に振って断ったことが今尚、鮮明に思い出される。
「いいの?」
母は人見知りの自分を気遣って、本音の聞き出そうとしているようだったが、全くもって不必要な慮りだ。首を横に振り続けて拒否する息子の姿は、ヒーローショーを嫌っているというより、他の要因があって意固地な姿勢を崩さないと咀嚼し、母は言った。「そう」——と。
「騒々しいですね」
紳士らしい低い声が鼓膜を揺らせば、夢想に耽っていた自分を現実に引き戻した。
「え?」
しかし、窓の外では、あの情景が広がっていて、子ども達の黄色い歓声が耳に届いている。
「どうしました?」
「・・・いや」
あの景色が現然と息づく様に、そぞろに立ち上がった。激しさを帯びる前の過呼吸ぎみな息遣いを催し、立ちくらみに至る手前の点滅がまばたきの代わりに起こり出す。極めて異様な状態にある身体は、頭で理解しようと試みる自分を戒める為の注意喚起のようだ。
「開きましたね」
彼の言った通り、今さっき乗り込んできたドアが開き、露天販売に精を出すクレープの甘い匂いや、真昼の太陽が陽光となって降り注ぐ後楽日和は、紛れもないあの日の感触である。あくまでも過去の記憶として顧みるだけのものであり、手を伸ばして掴むようには出来ていない。にも関わらず、今こうして確かに眼前にあるのだ。
「貴方はここで降りるべきではない」
一歩、二歩と歩き出していた自分の足は、彼の一言により止められた。その意図を理解できず、不満に染まった面差しを彼へ向けた。
「どういう意味ですか?」
「まだ、終着駅にたどり着いていない。貴方は先ほど訊きましたよね? どこへ向かっているのかと。だったら、ここで降りるべきではない。降りてはならない」
声を荒げる訳でもなく、淡々と事実を伝えているかのような言い回しをする彼の言葉は、今そこにある懐かしい景色に飛び込もうとする自分の後ろ髪を引いた。
「……く」
胸の奥から痛みが降って湧き、膝を折ってその場に身を屈める。息を吐くことすらままならず、吐き気がこんこんと止まらない。
「ほら、体は正直だ」
あまりの気怠さに彼の足元で横臥してしまう。すると、不意に目に飛び込んだ。床に落ちる彼の影法師が、異様な形を成して、出自の知れない三日月が傍らにある。それは人の皮を被った“死神”を想起させた。
殊更に人がごった返す場所の一つに、開業したばかりの大型ショッピングモールがあった。子どもが喜ぶ定番のヒーローショーが開催されると知り、母は恐らく息子である自分が喜ぶと思って連れてきたのだろう。単純な善悪の線引きによって繰り広げられる、段取りが決まった衝突を子どもながらに冷めた目で見ていた。ひいては、同じ方向を見て拳を振り上げる周囲の熱気に嫌気が差していたことも相まって、露呈する母の腹積りは沈鬱とした感情の源泉となった。そんな息子の天邪鬼さをみごとに見落としていた母は、無邪気にも言うのである。
「見よっか」
青空の下で白く光る舞台に向かって、整然と並べられた屋外ならではのベンチから声を出して応援を送る同年代の聴衆に混ざる姿が醜悪に映り、首を横に振って断ったことが今尚、鮮明に思い出される。
「いいの?」
母は人見知りの自分を気遣って、本音の聞き出そうとしているようだったが、全くもって不必要な慮りだ。首を横に振り続けて拒否する息子の姿は、ヒーローショーを嫌っているというより、他の要因があって意固地な姿勢を崩さないと咀嚼し、母は言った。「そう」——と。
「騒々しいですね」
紳士らしい低い声が鼓膜を揺らせば、夢想に耽っていた自分を現実に引き戻した。
「え?」
しかし、窓の外では、あの情景が広がっていて、子ども達の黄色い歓声が耳に届いている。
「どうしました?」
「・・・いや」
あの景色が現然と息づく様に、そぞろに立ち上がった。激しさを帯びる前の過呼吸ぎみな息遣いを催し、立ちくらみに至る手前の点滅がまばたきの代わりに起こり出す。極めて異様な状態にある身体は、頭で理解しようと試みる自分を戒める為の注意喚起のようだ。
「開きましたね」
彼の言った通り、今さっき乗り込んできたドアが開き、露天販売に精を出すクレープの甘い匂いや、真昼の太陽が陽光となって降り注ぐ後楽日和は、紛れもないあの日の感触である。あくまでも過去の記憶として顧みるだけのものであり、手を伸ばして掴むようには出来ていない。にも関わらず、今こうして確かに眼前にあるのだ。
「貴方はここで降りるべきではない」
一歩、二歩と歩き出していた自分の足は、彼の一言により止められた。その意図を理解できず、不満に染まった面差しを彼へ向けた。
「どういう意味ですか?」
「まだ、終着駅にたどり着いていない。貴方は先ほど訊きましたよね? どこへ向かっているのかと。だったら、ここで降りるべきではない。降りてはならない」
声を荒げる訳でもなく、淡々と事実を伝えているかのような言い回しをする彼の言葉は、今そこにある懐かしい景色に飛び込もうとする自分の後ろ髪を引いた。
「……く」
胸の奥から痛みが降って湧き、膝を折ってその場に身を屈める。息を吐くことすらままならず、吐き気がこんこんと止まらない。
「ほら、体は正直だ」
あまりの気怠さに彼の足元で横臥してしまう。すると、不意に目に飛び込んだ。床に落ちる彼の影法師が、異様な形を成して、出自の知れない三日月が傍らにある。それは人の皮を被った“死神”を想起させた。
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