彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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逆恨み③

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 一気呵成に噴射されるピンク色の消化剤を浴びた鞄は、如何わしい粉状の景色の中に溶ける。消化剤は四方八方に足を伸ばし、信念も意義もない生徒らの下品な視線を追いやるのに不足はなかった。徹底的に鎮火を試みる男だけが、廊下に居座り続け、伽藍とした静けさに包まれる。すると間も無くして、凶兆を言伝に知った数人の教師が、泣きっ面をぶら下げて現れる。眼前には、一人の生徒が消化器を片手に火種を鎮火させた後の、悠然とした装いを持つ英雄的な姿がそこにあり、怪我などを心配するような大人らしい振る舞いすら失念させた。

「……」

 学問を説いて学ばせる教師という立場を度外視し、首尾よく事態を収束させた生徒に対して、形而上の存在へ抱く畏敬の念を催す。

「あ、消防車は呼んでないですよね?」

 生徒は消化器をその場に置いて、教師の動向を尋ねた。そして、黒い制服のズボンに飛沫した消化剤を泥を払うように、両手は扇使いに徹する。

「クリーニングに出せばいい。費用は此方が持つから」

 普段は数学の授業を受け持つ白髪混じりの教師は、狭小な悩みに手を煩わせる生徒の苦労に心配りを見せて、“大人”と“子ども”という額面上の立場を辛うじて保持する。このような気遣いはあくまでも、社会的な側面を強く意識した教師の小賢しい立ち回りだ。よしんば男が登場せず、小さな火種がそのまま火災へ発展していれば、人口減少が嘆かれる日本国に於いて、経営が成り立たないほどの打撃を受けることは明白である。働き口を失う危機感からくる反射的な感謝を、クリーニング代を肩代わりすることで伝えているのだ。

「どうも」

 至って冷静な男は、同級生とは思えないほどの成熟具合が窺え、妙に胸がざわついて仕方なく、即興劇とは思えない幕開けから幕引きまでの鮮やかな動線は、台本書きがあったとしか思えない。

「神尾、すげぇな」

 一連の出来事を見届けたクラスメイトの間では既に評判となっており、男の名を“神尾”だと知った。

「さすがサッカー部」

「関係ねぇーだろ」

 当事者意識の希薄さを疑わざるを得ない、見当違いな四方山話が教室の至る所で繰り広げられている。ひいては、出火元となった廊下でも、同様の心根を持った野次馬達がぞろぞろと大挙して押し寄せていた。

「教室に戻れ!」

 ピンク色に染まった数奇な廊下の光景を目に焼き付けようとする、浅ましい好奇心はたった一度の怒声では全くもって怯むことを知らず、携帯電話に備え付けられたカメラの機能を利用し、お祭り気分で撮影を開始する。色気付いた矮小なジャーナリズム精神に苛立ちを覚えた教師達は、無愛想な歩行で野次馬に向かっていき、障害となって邪魔立てをする。それでも、脇や頭の横からカメラのレンズを淡々と向け続け、衆目を集める際の手土産にしようと目論んだ。そんな喧騒をよそに、神尾は廊下から既に離れており、尿意を催したのか。男子トイレに駆け込んでいた。
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