彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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変身①

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 水洗いで聞き損じた主婦を羨むような事件は思いがけず、彼からすれば、不満に膨れた腹の内容物が飛び出す二度とないタイミングだったのだ。とりとめもない足取りは、千鳥足のように酒精香り、どこを目指すかも定まらない。白い息を吐けば、赤黒く染まった右手に夜気が絡まる。肉を破り、臓物らしきものを傷付けた感触は、練習代わりに水の入ったビニール袋を突き刺したのが馬鹿らしく思えるほどの実感がこもり、いつまでもこだましている。青々とした顔色は彼の置かれた状況を雄弁に語り、籾殻の如く頬に流れる涙が愛おしい。

「大丈夫かい?」

 寝静まった閑静な住宅街で、背後から声を掛けられれば、怖気に肩がしゃくり上がるのも頷ける。天敵を前にした動物の体毛の逆上がり具合を粟立つ肌で再現したのも束の間、使い古されたメイジの杖を連想する年季の入った手が、寄る辺のない彼に伸ばされる。

「こっちへおいで、危なっかしくて見てられない」

 中小企業に好まれるコンパクトな営業車も顔をしかめる狭小な道路は、彼らの関係をより卑近なものとして演出しているが、夜更け過ぎに老齢がふらふらと出歩いていることを考えると、このような誘惑はとりわけ怪しげに映る。だが、まだ幼さが抜けきらない顔付きに声変わりを終えたばかりの彼の立場を鑑みれば、保護を申し出ることはそれほど不思議ではないのかもしれない。

「……」

 それでも彼は、不用意に老齢の手を取ろうととはしなかった。頑なに後ろ手に組み、前進を拒んだ。

「大丈夫。行くところがないんだろう?」

 老齢は彼の腕を掴み、水先案内人を買って出る。まだ成人もしていない未成熟な身体とはいえ、錆び付いて久しい枝のように細い腕を振り払えないほど、脆弱だとは思えない。それどころか、“折る”ことすらできるはずだ。しかし彼は、しずしずとこう繰り返すのである。

「すみません、すみません」

 懺悔の言葉を口走りつつ、老齢の引っ張る力に身体を委ねる彼の身持ちは、きわめて軽々しく、或いは罪深さに頭を焼かれた故に正常な判断を下せずにいる、というのが本音だろう。老齢に導かれるままに、見知らぬ横道へ逸れて歩く案内に従う彼の目付きは虚だ。よしんば、公園の公衆便所や、街灯もろくに敷設されていない町の片隅などに連れ込まれても、抵抗する力は全くもって残っていないように見える。老齢はそれを知ってか知らずか、恭順な彼の態度を予め理解していたかのように、ズンズンと歩みを進めるのであった。そして暫くすると、絵に描いたような古民家の風体をする二階建ての人家の玄関の前に二人は立つ。
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