彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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変身②

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 蝶番の音はまことに嫌らしかった。黒板を引っ掻かれているかのような甲高い音が、鼓膜を裂く勢いで耳に飛び込んできて、思わず両手を使って保護に走ってもおかしくなかった。だが彼は、玉のような汗を額に浮かばせながら、苦虫を潰す口元を微笑に変える。しかし、彼を困らせたのは音だけではなかった。経年劣化した汚ならしい橙色の明かりに迎え入れられると、せめぎ合う靴の量にたじろぎ、壁際に鎮座する茶褐色の下駄箱と思しき上に、使い終わったと思われる三つの芳香剤を一瞥する。

「いい匂いでしょう?」

 溜飲を下げたことによる腹の凹み具合に釘を刺すかのように、しずしずと腹が膨れ上がるのを感じた。

「そうですね」

 簡単な相槌で老齢に同調したのは正解だろう。お世辞のつもりで一つ、二つと阿てみろ。忽ち皮肉めいて、歯が浮いて仕方ないはずだ。

「靴が散らかっているけど、適当に」

 ぶつ切りで言葉を止めたのは、老齢もこの汚れ加減を自覚しているからだろうか? それでも、バツの悪さに頭を掻く訳でもない老齢を見るに、さほど気にしていないようにも見える。三和土に置かれた靴の種類はスニーカーで埋め尽くされており、尽く踵が潰れて草臥れている。これを履いている人間の性質が足元から覗き見え、彼は只々、不安を抱えるしかなかった。

 隙間を見つけて靴を脱ぎ、家に上がると、抜き足差し足で歩まなければならないほど、廊下にも物が散らかっていた。事を欠いて歩こうものなら、見知らぬ天井と独り向き合い、この場所にノコノコと付いてきてしまったことを後悔する羽目になる。だからといって、殊更に気を配って歩調に水を差せば、きわめて不恰好な姿勢を選ぶことになる。それは、家主であろう老齢に対する礼節を欠くことになり、あまり気受けは良くないはずだ。大仰な動作をなるべく抑えつつ、転ばぬことも意識する。そこらの獣道を歩く時よりも、慎重さが求められた。

「こんな夜中に出歩くなんて、いくら日本とはいえ危ないよ」

 突飛に投げかけられる世間話にすら彼は苦心し、目を回したように答える。

「本当にその通りで、手を血で汚した奇妙な男とすれ違いましたよ」

 彼の身体は滝のように発汗し出し、血色はとりわけ悪くなった。いつ吐瀉物を吐いても不思議ではない様相を呈する。悪化していく事態に身持ちを無くす彼の憂いは、あらゆる万難を乗りこなしてきた老齢らしい懐の深さを前に受け入れられる。

「本当? 怖いねぇ、それは」

 老齢は彼の虚言に耳を貸すだけ貸して、言及はしない。普通であれば、状況を仔細に聞こうと矢のように質問をぶつけてもいいはずだ。だが、老齢はそれをしようとはしなければ、まるで興味を示さなかった。
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