彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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変身⑧

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 真実を把握した者が特有に見せる、大きく膨らんだ胸は、あらゆる機微を巧まずして拾い上げる自信に漲っていて、虚飾を拵えても一目で看破される恐れがあった。それでも、軽口でお茶を濁すことでしか、この場をやり過ごす手段が見つけられなかった。

「見る目がありますね。僕、クラスの中心人物なんですよ」

 確信に迫った男の賢しら顔に泥を塗るつもりで彼は空笑いし、鋭く尖った犬歯を悪戯に覗かせる。主導権をそう易々と受け渡すつもりがない彼の軽妙な返事にも、苛立ちや憤りを感じさせるような感情の動きは見られない。それどころか、男は妙に落ち着き払っており、失言すればつぶさに指摘する慧眼があるように思えた。

「フン」

 彼の白々しい言い回しを男は鼻で笑い、テーブルを挟んだ向かいの椅子にふくよかな身体を預ける。

「いくら取り繕っても、ボロはでるし、さっさと述懐した方が楽だぞ」

 携帯灰皿をジーンズの右ポケットから取り出し、慣れな手つきで煙草に火をつけた。副流煙が如何に有害であるかは、重ね重ねの見聞により承知している。彼も幼いながらに、嬉々として煙草の煙を嗅ぎにいくような馬鹿な真似はしないし、出来るだけ体内に入れないことを心掛けた。

「僕の口から言う必要がありますか?」

 彼は男の手の平の上で踊るつもりはなく、判断は常に自分にあることを誇示する。

「豪胆だなぁ。さすがと言うべきかな?」

 不敵な笑みが癪に触ったのだろう。男を鋭く睨み付け、捲し立てるようにして罵詈雑言を浴びせる準備が出来ているようだった。それでも彼は、おいそれと噛み付き、言い争いを演じることはしない。老齢を前にして、卑陋なる姿を晒すのは憚られたのだ。男は首に手を回すと、退屈そうに息を吐く。

「でもよ、ずっとこの家の中に居るって訳にもいかないぜ」

 男の指摘はもっともであった。老齢の手厚い援助も、蜃気楼のようなものであり、いつかは霧散して現実に放り投げられる。根を下ろすには、些か心許ない立場だ。

「……」

 言い返すだけの言葉は見つからず、閉口に甘んじて、ひたすら椅子に座した。

「お前を匿った時点で、オレたちも知らぬ存ぜぬではいられない。同じ当事者なんだ」

 男はいがみ合って関係する単純な状況ではないと察しており、敵対心に準じて悪し様に扱うだけではいられないと、そこは大人らしい分別を弁えていた。

「これは提案になる」

 人差し指を立てて、腹積りがここにあることを明言する。彼はそれを無下にするような身持ちになく、ひとえに耳を傾けた。

「オレは色々と顔が広くてね。知人を多く知ってるんだ」

 月を逆さ吊りにする鋭利な口元が、一筋縄ではいかない懸念となって、背中にのしかかる。そしてその感覚に間違いはなかった。

「顔を変えないか?」

 白昼の往来で行われるスカウトより軽い誘いを眼前の男から受ける。
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