彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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変身⑨

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「僕が手術を受けるための身分証明とか、金銭面に問題はないんですか?」

 つまずく可能性を示唆し、それを断る為の足掛かりとするような、事の成り行きについて後ろ向きであることを告げる。男が椅子に座ってから正味五分もなかった。火をつけた煙草は、人差し指と親指で保持するのも難しい短さになり、男は口を尖らせて絞り尽くす。間抜けと罵っても齟齬がない顔は、彼の懸念する心配や不安を真面目に取り合うだけ無駄だと言っているようだった。

「婆さんにほいほいついてきておいて、その用心深さは矛盾してるんじゃないか?」

 彼の判断は尽く感情に由来しており、合理性に欠けると男は退路を阻むように言葉をあやなす。苦虫を潰す彼の口は真一文字に硬く閉じ、手痛い指摘を受けた子どもらしい反応を見せる。

「お前にとっても、オレたちにとっても、全くもって損がない」

 投資話を受けているかのような胡散臭さが男の体臭として臭ってくる。普通なら、席を外して行方をくらまし、甘い蜜を見せびらかす蠱惑的な誘惑から逃げればいい。しかし、この場所に迷い込み、行く宛がない彼は、男と正面から向き合うしかない。

「強制はしない。お前が決めろ。ただ断れば、オレたちもそれ相応の行動に出なければならない」

 男は名言はしないが、半ば脅迫に近い言い回しで彼の判断を迫った。

「…….」

 それでも、容易に返事をするのは憚られ、思案の深さに足を突っ込んだ。無数に打ち上がる水泡は、水面に顔を出す前に次々と割れていき、跡形もなくなる。胸の高さまでどっぷりと浸かれば、漸く一つの答えが出た。

「この周辺に形成外科なんて、あったんですね。知らなかったです」

 彼は飄々とそう言い、暗に男の提案を受け入れたことを表明する。

「全うな設備を期待するなよ」

 釘を刺されたつもりはない。件のフランケンシュタインに比肩する荒療治を受け、感染症を併発したのち、似ても似つかない顔形になろうとも、悔恨を口にして肩を落とすことはしない。

「えぇ、構いません」

 至って出鱈目な覚悟を自分に課した彼は、背筋を伸ばし、胸を張った。

「それじゃあ、夜にここを出るから、大人しく待っててくれよ」

 男はそう言うと、いたく満足した様子で吸い殻を携帯灰皿に放り込み、居間から出て行いく。すれ違うようにして、キッチンから戻ってくる老齢は、並々と注がれたお茶らしきものをテーブルに置いた。彼は改めて目の前に並んだ料理に対して、「いただきます」と一言捧げて箸を動かし始める。
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