彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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変身⑩

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 雑然とダンボールが並べて置かれた部屋の手狭さは、老齢から「ごめんねぇ。誰も使ってない部屋がここぐらいで」と一言詫びられる程度に、圧迫感があった。長らく物置き部屋として機能し、贔屓にされてきた跡は一見してわかる。カーテンを開ければ、薄汚れた雨戸が壁のように鎮座しており、日が差し込む機会になかなか恵まれてこなかったことを察した。淀んだ空気が常に漂っていて、座っているだけで沈鬱な雰囲気に身体が気怠さを覚えた。俗世から切り離され、居住者ですら足を踏み入れない部屋は、時間の流れが著しく鈍化し、一日がこんなにも長いのかと痛感する。

 男の如何わしい誘いに乗った彼は、荒涼たる大地に打ち捨てられる小魚さながらに、辛うじて息をしているような状態にあり、もはや調理を待つ倒錯的な感覚に支配されていた。うつらうつらと微かな眠気に小首を傾げていると、扉の取っ手が下がる音を聞く。

「よぉ、待たせたな」

 扉の隙間から顔を突き出す男の面構えは、満面の笑みに相応しい表情を拵え、怪しい水先案内人としての看板を背負っている。

「……」

 それでも、彼は無言で立ち上がり、導かれるままに後ろをついて歩く。男は、三和土で踵が潰れたスニーカーに下駄の如く爪先を引っ掛け、躓くことをまるで想定しないまま、玄関の扉を押し開く。雪崩飲む夜気の匂いに嗅覚は刺激され、開放感と呼ぶには些か大仰な、身体がそぞろに動き出す感覚は、理性や本能などといった、言葉を用いるより単純明快にただひたすら、画然たる思いによって突き動かされている。手入れを放棄された庭先の鬱蒼とした雑草などに目は奪われない。眼前にある世界の広がりを肌で感じながら、悠然と前進した。路肩には、黒い軽自動車が停車しており、男が運転席に乗り込む。続いて、彼も助手席のドアを開くと、軽自動車が上下に揺れるほどの粗野な乗り込み方をし、他人に対して厳しい目を持つ男は苦笑しつつ、アクセルに足を伸ばした。

「行こうか」

 見慣れた住宅街の景色は、世間を賑わす事件が起こった町とは思えない、伽藍の静けさが満月のもとにあった。そんな四角く縁取られた景色は、とりとめもなく視線を飛ばすショーウィンドウの陳列によく似て、どこか作り物めいた。そのうち、ぽつりぽつりと雨粒が窓に張り付きだし、徐にワイパーが動き出す。

「もうすぐだ」

 走り始めてから、一度座り直す程度の所要時間であった。そこは、似たような面構えをする民家が立ち並ぶ、とくに筆舌を尽くして語るまでもない住宅街の一角で、数にして十台の自家用車が止められる駐車場へ乗り付ける。男の運転は常に乱暴だ。ブレーキを忌み嫌い、ろくに速度を落とさないまま、カーブに侵入するなど自身の運転技術を過信しており、このような駐車においてもハンドルを無駄に激しく動かす。男は地面を区切る白線と睨み合い、前後左右に細かく車を振った。細かいことを気にしない横柄さを有しつつ、無駄に神経質で律儀な面もある、厄介な性格の持ち主であった。
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