彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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変身⑱

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 異性間で交わされる、「交際」という形式は文明社会の発展と合わせて、世相を色濃く反映する。だが、男が暴力でもって女に接するとき、それは元来の原始的な関係に立ち返り、肉体から精神に至るまで支配の構図を作り出す。彼はそんなうねりに巻き込まれたのだ。母親の身体をキャンパス代わりに青い痣が跋扈すれば、「何見てるんだ」と因縁を付けられて彼に飛び火した。逃げ場がない醜悪な空間がそこにはあって、とある日ついにやってきてしまう。

「おれはわるくない、おれはわるくない」

 交際相手は自己弁護を繰り返し、目の前に自ら作り出した惨事の責任を放棄する。ピンク色のカーテンに霧吹きを浴びたような鮮血が残っており、頭を強く殴打されて裂傷を負った際に飛び散ったらしい。口から涎を垂らし、床に敷かれた肌色のカーペットの上で身体は痙攣し出す。致命的な一撃を受けた母親の姿を見た瞬間、彼の身体の中で泡のように膨れ上がる“何か”が熱を帯びて存在し、それは音もなく破けた。

 キッチンから安物の包丁を取ってきて、交際相手が母親の亡骸を注視している間に背後を取る。彼の気配を察知する交際相手は寸暇に振り向いたものの、凡そ躊躇を知らない包丁は腹に目掛けて突撃し、手元の柄だけが顔を出した。瞬く間に溜飲が下がるのを全身で感じた彼は、嬉々としてその場を離れ、外界に飛び出した。彼は再びそれを再現しようとしていた。

 車止めのブロックが玩具にされた名残りが破片として飛び散っており、その一部を彼は手に持つ。そして、一気呵成に後部座席の扉を開ける。えらくすっとんきょうな顔をする長髪の男がいて、彼を横目にして尚、飽くなき性の衝動に支配された腰が前後の運動をやめない。

「クソ野郎が」

 老齢の自宅に招かれてから、順応を志しひたすら謙っていた彼が初めて悪態をついた。この変化は長髪の男に驚きを与えると共に、炯々たる眼差しに敵意を宿らせる。だが、ふしだらな下半身に集まった血が、著しく判断を鈍らせ、彼の右手に異物を発見したあとにも、身体は愚鈍であった。素早く殴りかかる彼の動作に反応は遅れ、むざむざと側頭部に大きな陥没を作る。力を込めようと急きたてられるあまり、返り血を浴びる距離まで接近してしまった。鮮血を顔に浴びれば、醜い怪物の狂乱になり下がる。乱れた呼吸そのままに、彼はその場を離れ、深い闇夜に溶け落ちた。

 決して小さな町ではない。だが、殺人事件が立て続けに起きる稀有な出来事は、世間に少なからず衝撃を与え、色めき立つメディアの興奮が町に跋扈した。とはいえ、時計の針に合わせて人々の生活は守られ、営みは連綿と続く。

「落としましたよ」

 親切な通行人が、地面に落ちたポケットティッシュを拾い上げ、通り過ぎようとする背中の丸い人間を呼び止めた。フードを目深に被ったその背景から、痰壷を覗き込むかのように、通行人がその影の中にある顔を凝視する。次の瞬間、「ひ」と口の中で悲鳴を上げ、身体を小さく揺らす。

「どうも」

 週末の真っ昼間に一人、色濃い影を背負う姿はポケットティッシュが手から手に渡る前に頓挫し、牡丹の花のようにポロリと地面へ落ちた。逃げるようにして目の前を去っていく通行人をよそに、眼下のポケットティッシュを暫く眺める。人波は彼を川の中腹にある岩と見立てて二つに割れると、社会に杭を打ち込む存在として顕現した。
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