彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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町猫紀行③

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「あっ」

 ただ、私は安心した。百戦錬磨の撮影者も、我に返った野良猫の前では、尻を追うだけの片想いで終わることがあったのだ。軽やかな身のこなしで塀を登り、決して人間がついてこられない狭小な空間を選んで逃げていく。それはまるで、餌を引っ込められた動物が、人間を見限ったようにも見え、私は少しだけ溜飲を下げる。

「えー、今日は木兎町に来ております」

「町猫紀行」の特徴は、野良猫を写すことだけには留まらない。各地に出向く足軽さは、景色の変化に富み、仕事と自宅を行き来するだけの退屈な日常に新鮮な空気を味わえた。

「早速、発見しました」

 閑静な住宅街に足を伸ばした撮影者の視線の先には、全身を黒い毛並みに覆われた成猫が一匹、衒いなく闊歩している。だが、注視を続けているうちに、成猫の歩き方に違和感を覚えた。右後ろ足が上手く動かないのか。やや重心が偏りがちで、健康な猫の歩き方とは幾ばくか違った。撮影者が背後から、徐々に距離を詰めていくと、気配を察知した黒猫は焦ったように走り出そうとする。それでも、健脚であれば人間を突き放すのに苦労しない俊敏性を見せられるものの、黒猫は全くもって愚鈍であり、高いところへ登ることも出来ない。

「なかなか逃げませんね」

 撮影者は小声でそう言ったが、明らかに足の不調からくる悠然さであった。そのことについて指摘しないまま、カメラのレンズを向け続けている。このことについて、コメント欄で強く指摘されても不思議ではない。そして、仮にその指摘を受けて撮影者の擁護に走ろうものなら、「自作自演」を連想させ、撮影者が如何に節穴であるかを逆説的に証明することになる。

「どうやら、人馴れしているみたいですね」

 木兎町に来てからであった。撮影者が出会う野良猫は尽く、身体のどこかに怪我を負っており、花曇りの空模様も相まって、陰鬱とした雰囲気が動画全体に漂っている。「町猫紀行~木兎町編~」と銘打たれた動画の題名からして、複数回に渡り投稿されると思われ、一視聴者の私は早くこの町を去ってくれと願って止まなかった。

「……」

 暫くすると、撮影者は漸く木兎町の野良猫に起きている異変に気付き始める。カメラは風景ばかり写し気味になり、被写体の魅力を余すことなく伝えるような溌剌さはない。声色は沈潜とし、野良猫の影を視界の端に捉えて尚、カメラを動かす手はひたすら鈍い。空き家や老朽化した一軒家が多く散見される木兎町は、通りがかる住民のほとんどが老齢が占め、幼稚園や保育園、並びに小学校などの子どもを育てる環境が整っておらず、町全体が年老いて退廃的な気分が蔓延していた。
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