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第二部

自己紹介

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 過不足ない衣食住は、身体の汚れに気を回せる余裕を生み、城の裕福さを物語っていた。息つく間もない景色の変化に対して、殊更に動揺することがなくなった。皮膚が厚くなり、環境への順応が進んでいるかと思ったが、洗濯機に入れられた衣服よろしく、振り回されているだけなのではないか。環境が人を育てると俺自身、そう思っていたものの、この怒涛なる変化の中で明確な意思のもとに決断したことはあったか? あまりの悩ましさに俺はベッドに倒れ込むと、倦怠感に巻かれて目蓋の重みと懇ろになった。

 俺は頓着がない。良く言えば柔軟性に溢れ、悪く言えば芯がない。そして尽く後手となり、流されるままに判断を下す瞬間を取り逃すきらいがあった。

「いいなぁ」

 教室の隅で仲睦まじく男女が肌を触れ合う光景を、まるで指を咥えて眺めるように嫉妬の言葉を溢す。とはいえ、俺と彼に異性間への積極的な交際に乗り出す強かな性愛はなかった。羨望の眼差しを向ける程度の浅ましい気持ちを茶化して卑屈に笑い合うのが常である。

「俺達が女と付き合っても、学校の外で幻滅されて自然と交際がなかったことになるだろうな」

「ハハッ! 僕達、面白くないからな」

 彼は度々、羨みに目配せをし、口々に言った。

「いいな、あれ」

 嫉妬を包み隠し、慎みやかに振る舞うのが美徳だとは思わない。隣の芝が青く見えて思わず口に出すことは往々にあり、欲深いと咎めはしない。しかし、ひたすら幻影を追うかのように目玉を右往左往させる彼の様子は少し過剰だとも思っていた。嫌悪感と言い換えてもいい。度重なる感情の述懐は時折、「またか」と頭が落ちる。

 直近の交通事故に於ける死者数は、二千八百人らしい。通年で見れば減少傾向にあれど、朝日が昇って、夕日となって落ちるように被害者と加害者の出現は、逃れようのない事象の一つに加えてもいいだろう。だからといって、その中の数字の埋める一人になるかもしれないと、おっかなびっくりに日々を過ごす人間はいない。そぞろに他人に死をなすりつけ、後学に知るのだ。

「嘘だろ?」

 死は常に隣り合わせにあり、能天気に生きるのも程々にしろと一喝を受けた気分だった。テレビ越しに知った青天の霹靂が、上記の数字を思い起こさせ、理不尽だと唾棄して憤る。あまりに滑稽な感情の振り幅だ。それでも、その理不尽を振り払う力があったなら、嬉々として俺は、

「そうこなくっちゃ」

 冷水を浴びせられたように飛び起きる。部屋で他人の声を聞く不信感は天井知らずの驚きをもたらし、高鳴る胸の鼓動から肩で息をする。

「だ、誰?」

 ツギハギの皮で繕った野性味溢れる一生羅に身を包む目の前の女は、フライパンに生地を流し込んで丸く整えたようなパンケーキ顔をぶら下げ、害意はないと微笑んだ。だが、薮から棒に人の部屋に立ち入り、声を掛ける軽骨な振る舞いから眉間に集まった力を緩められない。

「バエル様から魔術についての指南を任せられました。アイと申します」

 深々と頭を下げるが、部屋に勝手に入っておいて、今更礼節をもって接するあべこべ加減に不満は尽きない。それでも、

「えーと、レラジェです。宜しくどうぞ」
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