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第三部

身勝手に

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「逃げるぞ」

 男が発する言葉は、僕が置かれている状況を端的に表し、旗色の悪い立場から脱する為の一言に違いない。筆舌に尽くし難い感情が源泉となって、僕は咄嗟に女の右手を掴んだ。すると、目を回したように景色が歪み出して、身体が捻じ曲がるような感覚に襲われた。

「連れて行くな!」

 中村の滅多に見られない必死なる形相を拝んで、熱いものがこみ上げてくる。言語化が難しいと踏んで、女の右手を掴んだ理由から目を逸らしたが、今ならはっきりと分かる。

「さよなら」

 互いに向いた好意の結実に水を差してやりたいという「嫉妬」に。

 目の眩むような陽だまりと、頭上を覆う鬱蒼とした木の枝から鳥の囀りが聞こえてくる。身体を屈ませて休息を取るのにも苦労するであろう、獣道といって差し支えない地面の凹凸が、人の出入りに向かない場所だと直下に理解する。

「どうしてソイツを連れてきた?!」

 男があまりの嘆かわしさに頭を両手で挟んで、僕の行動を糾弾する。感情が赴くままに反応した身体の動きを咎められても、息づく生物の反射としか言えず、それを包括的に責め立てられても反省の仕様がない。何より、木々が生い茂る原生林のような場所に否応なしに連れ出された僕を頭ごなしに非難するなど、都合が良すぎる。

「……」

 暴漢に襲われる直前の酷く怯えた眼差しをする女の様子は、僕が起こした行動に対する拒否反応だろう。

「仕方ない」

 手の平から光の塊を飛ばすような所作を女に向けてする男に、思わず失笑しかけた。だが、手遊びに興じる緩みは見られず、二人の間に緊張が走る。拳銃を空目したかのような女は、今にも両手を頭上より高く上げ出してもおかしくない、神妙な雰囲気を漂わせ始めた。

「おいおい」

 寸劇だと一笑できれば、大いにしたい。しかし、至って真面目な二人からして、軽薄な一言は命取りになるような恐れをそぞろに抱く。

「ベレトさん、バエル様と敵対したところで、結末は見えている。そうでしょう?」

 事を構えた男に対して、女はその後ろ盾に支えられる力強さを言葉の節々に表し、胸を張って主張の正当性を説いている。

「借り物の力でよくもまぁ、そこまで増長できるな」

 二人の睨み合いは激しさを増していき、剣呑な口争いからいつ、直接的な危害に発展して、烈火の如き闘争が目の前で繰り広げられるか。もはや時間の問題にしか見えない。僕は一体何を考えているのだろう。男の前に立ちはだかる壁として、この身体を差し出す殊勝なる心逸りは、肌に粟立つ無数の逆立つ恐怖から逆境にあることを悟る。

「おい。ウァサゴ、なにをやっている」

 手を汚さずに人を殺す方法を弁えているかのように、男の鋭い視線が僕の胸を穿つ。これが如何に突飛な動作であるかは、背中越しに伝わってくる女の怪訝な雰囲気からも看取できた。

「駄目だ。この女に手は出させない」
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