吸血鬼は唇に紅を差す

駄犬

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愛だ恋だの語りたい

吸血鬼

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 女性に提示できる利点は一つもなかった。それでも、敷設されたレールの上を辿っているような自信の元に憚らず言った。女性の眉根に逡巡が掠めたものの、直ぐに居直り華奢な手で合図を送ってくる。声に出したならきっとこうだ。

「ついてきて」

 瀬戸海斗に襲われて地面に倒れたままの被害者の按配など気にもせず、僕たちは歩き始めた。

 如何に寄り道をするかを日々の命題にしてきた僕にとって、水先案内を立てて従い歩く新鮮さは比類なく、既視感に溢れる風景がまた違って見えた。ただ、目下にある二又に分かれた道の左右、どちらに曲がるかを僕は簡単に看破できた。何故なら、若い女性が一人で暮らすには丁度いい、青いアパートが建っており、周囲は一軒家ばかりで他に思い当たる物件がなかったからだ。そんな僕の予想は正しかった。

「広くはないけど」

 僕はあくまで客人であり、一時保護を頼んだ弱い立場にある。猛々しく文句を飛ばす道理にない。それどころか、ソファーにテレビ、シングルベッドが置かれているだけの殺風景な一室は、床で雑魚寝するのに全く支障がなかった。

「構いませんよ」

 羽織っていた黒いジャケットを壁のハンガーへ掛ける。女性の背中は少し丸まって、薄手のワイシャツが黒い下着を浮かび上がらせた。布を一枚、隔たことで生まれる形容し難い艶かしさに思わず目を奪われる。女性に振り返られて視線の行き場に困らせるのは行儀が悪い。僕はなるべく俯きながら、盗み見るようにした。

「さっきは危なかったね」

 背中を向けながら話す方針にある女性の胸を借りて、僕は無遠慮に背中を凝視する。

「助けていただき、ありがとうございます」

「きっと貴方の顔を覚えているはずだよ」

 僕は自ら、瀬戸海斗に素性を認識していることを口に出してしまったし、制服に腕を通した人間を忘れるわけもないだろう。ならば、依然として危険は去っていないことになる。

「やはり、警察に連絡した方がいいんでしょうか」

「どういうこと?」

「実は、クラスメイトなんです。アレ」

 女性の背筋がピンと伸びるのを見て、僕は直裁に訊くことにした。

「アレは何なんですか」

 抽象的な言い回しを呼び水に女性に答えを迫った。するとすかさず、一切の躊躇いを排して言うのである。

「吸血鬼」

「どうして分かるんですか」

「私も、同じだから」

 随意に引き出されていく情報の全ては、長物な勘ぐりや疑心を潰すように素早くこなされた。背中越しで相手がどう出るかの鍔迫り合いなど、さっさと終わらせてしまいたい。そんな腹積りが女性から感じた。

「迷惑してたんだ。ここ最近、彼が人を襲うものだから」

 女性はシングルベッドに腰掛けて、稚気に手を焼く大人の苦悩を湛える。隔世遺伝による血の薄まりが、「吸血鬼」としての欲求や特徴を薄弱にした。自身を「吸血鬼」と自覚する者は稀有であり、四国にて起きた未曾有の吸血鬼の事件は記憶に新しい。
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