吸血鬼は唇に紅を差す

駄犬

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愛だ恋だの語りたい

寄る辺

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 壁際に並んで置かれる四人掛けのソファーから立ち上がり、バーテンダーの主戦場となるバーカウンターへ移った。その瞬間、蝶番が戦慄き、背筋はそぞろに伸びる。一介の客でもない僕に世話を焼き、店を開けてしまう店主の老婆心を逆恨みする。店名すら知らないまま、他の客の応対に追われるとは露も思わず狼狽していれば、来客の放つ異臭に意識が向いた。

 一言でいえば、血生臭い。まるで先刻まで生肉を捌いていたような血生臭さである。僕は、臭いに示す怪訝な顔付きを店番を任された不安に転化して、来客のために言葉を持ってくる。

「今表に出ていて、直ぐに戻ってくると思うんですけど……」

「あー、そうなんだ」

 来客は顎に手を添えて、どう判断を下すべきかの思案に入った。なかなかどうして居心地が悪いではないか。もし踵を返して店を出られてもしこりは残るし、引き止めたとしても同じ空気を吸うとなれば鼻をつまみかねない。

「じゃ、また今度くるわ」

 店の留守を任された甥っ子に言伝を残すかのような軽々しさに僕は助けられた。暫くして、蝶番が再び鳴き出す。僕はその頃になると、店主であれ、来客であれ取るべき態度を弁えたため、ほとんど不安はなかった。

「買ってきたよ」

 バーテンダーの懇意を受け取る際に、僕は努めて冷静に顔色を変えずに接する。この血生臭さに耐えるには、拳を握り込んで全身に力を込めなければならなかった。

「はい、どうぞ」

 コップに水を汲んで頭痛薬と一緒に差し出すバーテンダーの手際の良さに只々、関心する。僕は水を含み、頭痛薬を飲み込んだ。

 回帰すべき日常が消え去り、道を誤ったと嘆き悔恨するほど、自分の人生に愛着を持ったことはない。寧ろ、好転したとさえ思っている。日頃から、薄氷の上を歩いているかのような感覚があり、足の置き場に気を遣いながらも盲目的な振る舞いに終始する生活に飽き飽きしていたところだ。

「行くの?」

 客でもない人間がソファーを占領したばかりか、接客の機会を奪った僕を煙たく思わず未だ身を案じるお人好し加減にはお見それする。

「ありがとうございました」

 これ以上、長居をして営業に支障を及ぼすのは此方もばつが悪い。僕は立つ鳥跡を濁さずに店を出た。つぶさに景色を嗜む習慣が期せずして、節操なく首を回し血眼になって見覚えのある建物を探す典型的な迷子の行動を取らずに済んだ。日が暮れて、どれくらいの時間が経ったか。僕は右ポケットにあるスマートフォンに手を伸ばす。

「二十一時か」

 斯くあるべき流浪人は町中で何度も見てきた。その一員に加わることへの恥じらいもないし、「嗚呼、そうか」と飲み込めるだけの厭世観は常にあり、行き着くところまで行き着いたと改めて自覚した。

 丁度いい時期に新たな門出を踏み出せた。生暖かい夜風を浴びるのは、寒空で顎を小刻みに揺らすより遥かに快適だ。家と学校を往復するだけの憂鬱なレールがなくなり、あてどなく町中を歩く。一寸先は闇だが、頭が沸騰するぐらい幸せだった。
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