吸血鬼は唇に紅を差す

駄犬

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愛だ恋だの語りたい

接敵

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 商業施設の類いは周囲になくなり、いわゆる住宅街を歩いていた。

「おい!」

 その呼びかけと同時に、僕はまたあの臭いを嗅ぐ。

「お、お前ぇっ由子のなんなんだぁ?」

 千鳥足で歩き出しそうな呂律の回り方は正常な状態ではないことを語るに落ちる。青空の下でざっくばらんに鋏を入れたであろう髪型は、座持ちを度外視した身なりと相まって、僕に危害を加えるのを一切厭わない迫力があった。

「アンタこそ何だよ」

「おれ? なぁに質問してんだ? コッチが聞いてんだろ」

 質問を質問で返される苛立ちは理解できる。しかし、肝心の質問が凡そ理解できない。

「最近、ん。よく由子の隣でガキがいるのは我慢できねぇな」

 もつれにもつれた言葉使いをする目の前の男と仲睦まじく肩を並む光景は想像できない。男を折り返すための軸足にし、背中を向けた途端、全身が総毛立つ。それは、人間に残存した野生の名残りであり、不審者に対して無防備にも背中を向けるなど、以ての外だと諌められたのだ。僕は直下に風を巻いて振り向く。

 闘牛さながらに身体を低く保ち、懐に飛び込んでくる男の素早さは印象的で、血気盛んに僕の顔を的にする拳は見逃せない。殴られて気持ちいい思いをするようなマゾヒストの気は持っておらず、顎を引いて空気を殴らせた。

「?!」

 出会い頭に暴力を振るってきた男の驚きは猛々しさに溢れ、僕は苛立ちを覚えた。

「な、なんで。あり得ないだろうが」

 不意を突かれた上、振り向き様に拳を避ける身のこなしは僕自身、思いもかけなかった。だからといって、目の前の蛮行を水に流して飄々と振る舞うほど、今の僕は気が長くない。

「まさか、血、吸われたのかぁ?」

 その疑問は、僕が命を賭して行ったことへの確かな裏付けであった。そして、脈略のない憤りを受ける背景に、異性間に発生しがちな色恋のもつれならば、建設的な話し合いを持ち掛ける道理はない。疑義を募らせる男の愚鈍な立ち姿を見計らって、脱兎の如く走り出した。

 流れる景色の速さに驚きつつ、足の回転を更に上げる。だが、背後から聞こえてくる足音から察するに、吸血鬼を振り切れないことが早々に判った。僕は瀬戸海斗の異様な跳躍を思い出し、勢いそのままに地面を蹴る。頭上にあったはずの電線を目と鼻の先に捉え、とっさに空中で反り返ってなんとかやり過ごす。電線を見事に潜ったのも束の間、一軒家の屋根に着地するために上体を前傾に戻すと、両手足を緩衝の代わりにした。

 想像していた以上の飛び上がり方に自分の身体に起きた劇的な変化を否応なしに気付かされる。辛うじて頭がついていっているような状態にあり、逃げていたことを失念するほどの抜け落ちが男の声を再び背中越しに聞くはめになった。

「人間如きが逃げ切れると思うのかぁ?」

 いつまでも逃げ腰でいて、袋小路に逃げ込んだ末にがっぷり四つで向き合うより、今この場に於いて事態の打開に踏み出す方が良さそうだ。
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