吸血鬼は唇に紅を差す

駄犬

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愛だ恋だの語りたい

本能

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 男は腕を丸太の如く振り回し始め、ねじ伏せることだけに気炎を吐く様は、粉砕器と似て触れ難い。無闇矢鱈に手を出そうものなら、手痛い怪我を負うかもしれない。前後左右、身体をあやしながら、致命的な一撃を入れるための目を養うつもりでいたが、何より先に男の体力に陰りが見え始めた。

「はぁはぁ」

 肩で息をし始めた男から脅威は剥落する。僕はすかさず硬く拳を握り込み、助走のための一歩目を蹴った。瞬きする間に詰めた間合いは男の虚を突き、阿呆面と相違ない顔を見る。皮膚の下に隠れている頬骨を直接殴ったかのような鈍い感触は、罪悪感に翻って胸がさざめく。だが、転がることでしか力の逃がし所を失った男が屋根の上で天地を巻き込む姿を見たとき、にわかに身震いした。球状を成した身体は、雪玉が解けるように次第に歪さを増して、最後には仰向けとなり男は虚脱感を露わにする。一目で気を失っていることは分かった。しかし物足りない。今尚、拳に残る感触をもっと深くに、根差したものにしたい。僕は男に馬乗りになり、腕を大きく引き上げる。

 夜の帳に乗じた蛮行は、不吉な音の調べとなって閑静な住宅街に闇夜の礫を投げた。ゆくりなくそれを聞けば、物見高い眼差しを向けて当然の物音である。ただし、瞼の裏を見るかの如き闇はそんな好奇心すら邪魔立てし、野生動物の諍いだと無理に咀嚼して見逃すはずだ。

 粘土の形を変えている感覚を想起するほど、出っ張るべき部分が潰れて、そのシワ寄せに額が猿の腰掛けのように異様な膨らみ方をする。口はまともに閉じられなくなったのか、終始半開きで奥に傾いた前歯が覗き見えた。全身に水が行き渡るような活性を芯から感じる。生涯通して、このような感覚を覚えた試しがなく、まさに生まれ変わった気分だった。

 何処へ行こうかと思い悩むこともない。無心に歩いていれば、今まで書割でしかなかった公園に訪れる。遊具のブランコに座って、全身を使い前後に揺らす。その単純な振り子運動は、猥雑とした世間を置き去りにし、かすかに残っていた郷愁が薫った。公園を囲む民家から耳を傾けずとも営みが聞こえてくる。夕食の準備に追われる母親が子どもを叱る声や、風呂場でご機嫌に口笛を吹く音などの、隣り合わせる悪意の所在に気付かない生活音は微笑ましい。

 まんじりともしない夜が過ごしやすくあった。しかし、その摂理に従っていると明星が近付くにつれて、必ず辺りは静まり返り、立てた物音が波紋のように広がる。まるで世界から取り残されたかのような孤独感が全身を包み込み、僕は一人でいることの寂しさを初めて味わった。スマートフォンもすっかり寝付いてしまい、世俗との接点を絶たれれば、朝日に飛来するカラスの鳴き声に辟易した日々が覆った。空が白み出す瞬間を今か今かと待ち望む。
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