吸血鬼は唇に紅を差す

駄犬

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死なば諸共

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 呼吸は毒だと思い知らされる。胸の膨らみに応じて亀裂が走るかのような痛みが襲い、慎ましやかに鼻から吸ってお伺いを立てることでしか、「息」を吸って吐く動作は成立しない。瀬戸海斗は、そんな状況に陥って尚、立ち上がろうと右膝を立てる。

「僕はお前に興味はないけど、向かってくるならそれに対処するだけの力を身体に刻む」

 藍原は著しく鈍化した瀬戸海斗のもとへ歩き出す。首を回すなどといった動きすら憚る瀬戸海斗は、眼球を転がして漸く藍原の言葉の意味を知る。

「ざっけんな。こんなところで、終われるか」

 頭の中で駆け巡る窮地の脱し方。手練手管を必要としない、血肉を食らってきた吸血鬼だからこそ、選択肢の一つとして数えられる。それこそ、変体である。体積を無視した身体の膨張は、神田の件で経験済みだ。しかし、この粉塵では雑居ビルの出入り口が判然とせず、逃げる先が見当たらない。ならば、神田の時と同じように、命を奪って止めるしかない。そう思索した藍原の不意をついたのは、腹から生えてきた腕であった。身体を簡単に包むほどの巨大な手に捕らえられ、壁に押し付けられる。

「なんでもありかよ」

 鉄扉に身体を挟まれたかのような重圧感から察する。幾らもがいたところで徒労に終わるだろうと。「変体」を逸脱した奇形さに瀬戸海斗としての名残りは消え去り、生き物を捕らえて離さぬために機能する生物と化した。

 裂けかけた耳や、頭皮から汗のように垂れ落ちる血。まともに足を着くことさえままならず、爪先立ちを強いられた立ち姿は、満身創痍と見て相違ない。イロウとピエロは、打撃の一つ一つが致命傷になりかねないと、お互い理解した上で確実に相手を傷付けるための手段を講じた。それは時折、反撃を貰うことを前提としたものもあり、血だらけになって当然のやり取りが行われていた。

「はぁはぁ」

 次の一撃が決定打になる。そんな予感が通底し、なかなか一歩目を踏み出せない。この静観を破ったのが、瀬戸海斗の見境なく無数に伸ばした腕であった。目の前の相手に篤と張り合っていたせいで、瀬戸海斗の腕を避け切るには至らず、やむなく二人は壁へ叩き付けられる。

「脳なしの吸血鬼が」

 悪罵を用いてこき下ろすしかできないイロウの悔しさが眉間に集まる。荒れ狂う瀬戸海斗によって、粉塵は晴れて、視界が開けた。床へ倒れた山岸に覆い被さり、なんとかやり過ごそうとする金井の姿や、他にもぽつりぽつりと死体と思しき幾つかある中で、悠然と仁王立つ華澄由子がいた。

「凄いわ。こんな状態になっても、人の判別がつくなんて」

 僅かに上がった口角に皮肉めいたものを感じる。それでも、瀬戸海斗の腕が華澄由子を振り払うなどせず、ひたすら周囲の物へ破壊の限りを尽くす。

「華澄、由子オ」

 その後ろ姿を一目で華澄由子だと穿つ藍原は、巨大な手の指に噛み付き、引き裂いた。指と指の間にできた隙間から抜け出して、藍原は走る。
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