情動

駄犬

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歯の浮くような台詞

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「ど、どうも」

 口が上手く回らない上、目線も上手く定まらず俯き加減になってしまった。あまりに甲斐性がないと思い、頭を掻く動作を付け加えて見窄らしい振る舞いに恭しさを付属させる。

「入って」

 私の浮ついた右手が、彼女の細く長い指に絡め取られ、部屋の中に誘われる。せっせと食べ物を運ぶ働き蟻さながらの帰巣本能を掻き立てられ、私は彼女の誘導に従った。肩まで伸びる黒髪の艶は、仲間外れを作るより結束を重んじ、前進に合わせて整然と足並みを揃える。部屋の中は、彼女の皮膚に塗布された香水の匂いが漂っていて、吸い込むたびに緊張の為に厳しく吊り上がった目尻が、ゆっくりと弛んできて柔和さを帯びる。

「いい部屋でしょう?」

 彼女は部屋の間取りをよく理解しているようで、私が初めてきたことを前提に話を進めた。腰丈の位置にある壁際の窓と同じ高さのダブルベッドは、一夜を過ごす客人の寝心地を助ける為に、万人に受け入れられるように調節されているようであった。

「気になる?」

 私の視線の行方を目敏く捉えた彼女に、恥ずかしい所を見られた。理性を度外視した欲への執着心は、積み重ねられた文明の上では下品の一言に尽き、それでも尚無頼に振る舞おううとする者は、往々にして“猿”という蔑称を与えられる。

「いつもは硬い布団に寝転がっているものだから、つい目が行ってしまって」

 自身の経済状況を語るに落ちる取り繕い方は、異性を相手にしている時に限って言うと、悪手と言わざるを得ない。だがしかし、彼女は違った。

「良かった! 喜んでもらえて」

 満面の笑みを浮かべる溌剌な表情を目にした瞬間、身の上に即さない粉飾に躍起になり、欺瞞的な態度や言葉、外聞など、実態を伴わない姿を晒すことに恥ずかしさを覚えた。飾り気のない本音こそ、彼女が求めてやまないものであり、小手先の上辺はかなぐり捨てるべきだ。私は子どものように、窓際の景色に向かって走り寄り、眼下に広がる町の様子を見下ろす。

「いい眺めですね」

 道沿いに点々と並んだ街灯や、森閑とした商店街の侘しさ。チェーン店が看板を掲げる国道の行き違う前照灯など、普段はなかなか拝めない角度で夜の帳が下りた後の町を一望できるホテルの眺めに喜んだ。

「わたしも、好きなんです。ここから見える景色が」

 眼前の風景を褒め称えたばかりの視線が、私の側に並び立つ彼女の横顔に向けば、口述した景色への賞賛が薄っぺらく、まるでお世辞のように感じられるほど、熱心な注視に変わった。きわめて自然な振る舞いとして私は窓際に立ったはずだったが、その実演じていることに気付かされる。

「えぇ……」

 彼女の前で取る一挙手一投足が、全て浅薄な考えをもとに行われているように思えてならない。それでも尚、この紅潮ぎみの顔色に疑いはなく、決して彼女に対する好意は嘘偽りない。ならば、このような言葉もまた、自身を飾り立てるものとはならず、言下にバツの悪さを味わうこともないはずだ。

「美玲さんと見れば、より綺麗に見えてきますね」
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