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21,いち(壱夏視点)
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『その音』が聞こえて、俺は静かに布団から起き上がった。
今居るのは、灯りを消した客間。
横たわっていたが、寝ていたわけではなく。闇になれた目で時計を確認すると、丁度2時を指す短針が見えた。
「な……い、い……たい、……い、たい、な」
夜の空気をかき混ぜる、女のか細い声が廊下から聞こえた。それが、床板を軋ませる足音と共にこちらに徐々に近づいてくるのが分かった。
「……っ」
小さく息を飲む音がして振り返ると、隣の布団にいる淳平が強ばった顔で廊下を見ていた。動かないらしい自分の体を、もどかしげに睨むのを制して、俺は片膝をついて障子の前に陣取った。
昼間、嘘をついたから、淳平の視線が今までになく居心地悪い。
しかしそれをなんとか意識の端に押しやって、様子をうかがった。
「な、いたい、……い、……り、い、な」
言葉は徐々に規則性の乏しいただの羅列に変わっていく。そして俺の見上げる、月明かりが射す障子に女の横顔の影法師がうつった。
その影の唇が動く。
「な、た、……い、……たい、り……」
やけに感情の欠いた声が、客間に響いた。
「な、り、た、い」
「帰れ」
睡眠を邪魔する不躾な相手には、ご退場願おう。俺は、立ち上がりざまに持っていたバットを振り抜いた。
木枠を砕くものすごい音を立てて障子の半分が庭に吹き飛んでいく。桟の残骸や和紙が、雨のように降り注いだ。
木屑が舞う中、何が起こったのか分からないという女の表情が垣間見えた。爪の先に塗った赤い色がやけに印象的で、対照的にボサボサの金髪がみすぼらしい。
俺は半壊した障子を踏み抜けて、その揺れる影に近づく。
肉の手応えはなかったから人ではない。妖や霊と呼ぶには狂気が濃い。死にたてか、もしくは。
「生き霊……」
空虚な穴の開いた目と、視線が合った。
みたことがあるような、ないような顔。
「淳平になりたいの?」
バットを肩に担ぎ、客間を見やる。未だ金縛りがとけないらしく、布団にくるまった淳平が青ざめていた。まじか、とその顔に書いてある。
体が動いたら多分止められていたから、今回は動かないのがありがたい。
ちあう。
否の返事と共に、一瞬、むせ返るほど甘い煙草の匂いが鼻をついた。
「じゃあ、何に」
静かに聞けば、影の輪郭が正面に向いた。
これはさすがに、意表をつかれた。
「……俺?」
なるほど。目的のための最短距離を選ばない思考に少しだけ感心する。
確かに彼として近づいてきた場合、俺も今みたいな力技はできない。人質としてとられたら、選択肢はそう多くないだろう。
「いいよ」
ということは、目的を知った俺がここにいる以上、淳平に害が及ぶことはない。毒気を抜かれて、俺はバットを庭に放り捨てた。
両腕を広げる。
「こんなんでよければ、どうぞ」
女の生き霊は一気にざわめき立ち、空洞の目が輝くのがわかった。煙草の匂いが濃く立ち込めた。
女が近づく。
俺になって彼女は何をするつもりだろうか。お金、欲、名誉?女は滑るように接近し―――――しかし、触れる直前でぴたりと、止まった。
「どうかした?」
女の顔は眼前にある。少し動けばキスができそうな距離で俺は、先程まであった相手の喜色が消失したのを見てとった。
ひたり
肩に粘着を伴う肉が置かれる気配がした。
ゆっくりと『それ』が俺の肩の上で伸び上がる。
一見すれば山椒魚のような形をとるそれは、よく見れば冗談のような数の人体でできているのがわかるだろう。浮世絵にある、人を寄せ集めた顔のように。
山椒魚が動くたびにギュウギュウに押しつぶされるモノたちが、同時に、ガラスを掻くような悲鳴や怒号を上げる。鼓膜の存在を必要としない金切り声は、脳内に幾重にも木霊した。
蛇に睨まれた蛙のように、戦意を喪失した生き霊に向けて山椒魚が口を開ける。途端に、人の悲鳴は何百倍にもなり女に叩きつけられた。
不愉快。
醜悪。
おぞましい。
奇怪。
そのあたりの全ての単語を混ぜ合わせたような、うちの祀り神サマ―――――いち、が獲物を見定めたようで身を乗り出す。
目の前の女になんら興味はなかったが。
生き霊として、寝ている間に抜け出た魂の一部がいちに喰われれば本体がどうなるか、そこだけは気になった。
「おめでとう。これで君は俺と同じになれる」
口から出た言葉は、自分でも滑稽なほど無機質なもの。
生き霊が悲鳴を上げて逃げ出した。
「……いーち抜け」
「だぁぁ!」
淳平の声が飛び込んできた。
思いっきり後ろから、いちごと抱きつかれて瞬間的に心臓が止まる。
「っ」
咄嗟に振り払って振り向くのと、障子の残骸の中に淳平が転がるのが同時だった。
今居るのは、灯りを消した客間。
横たわっていたが、寝ていたわけではなく。闇になれた目で時計を確認すると、丁度2時を指す短針が見えた。
「な……い、い……たい、……い、たい、な」
夜の空気をかき混ぜる、女のか細い声が廊下から聞こえた。それが、床板を軋ませる足音と共にこちらに徐々に近づいてくるのが分かった。
「……っ」
小さく息を飲む音がして振り返ると、隣の布団にいる淳平が強ばった顔で廊下を見ていた。動かないらしい自分の体を、もどかしげに睨むのを制して、俺は片膝をついて障子の前に陣取った。
昼間、嘘をついたから、淳平の視線が今までになく居心地悪い。
しかしそれをなんとか意識の端に押しやって、様子をうかがった。
「な、いたい、……い、……り、い、な」
言葉は徐々に規則性の乏しいただの羅列に変わっていく。そして俺の見上げる、月明かりが射す障子に女の横顔の影法師がうつった。
その影の唇が動く。
「な、た、……い、……たい、り……」
やけに感情の欠いた声が、客間に響いた。
「な、り、た、い」
「帰れ」
睡眠を邪魔する不躾な相手には、ご退場願おう。俺は、立ち上がりざまに持っていたバットを振り抜いた。
木枠を砕くものすごい音を立てて障子の半分が庭に吹き飛んでいく。桟の残骸や和紙が、雨のように降り注いだ。
木屑が舞う中、何が起こったのか分からないという女の表情が垣間見えた。爪の先に塗った赤い色がやけに印象的で、対照的にボサボサの金髪がみすぼらしい。
俺は半壊した障子を踏み抜けて、その揺れる影に近づく。
肉の手応えはなかったから人ではない。妖や霊と呼ぶには狂気が濃い。死にたてか、もしくは。
「生き霊……」
空虚な穴の開いた目と、視線が合った。
みたことがあるような、ないような顔。
「淳平になりたいの?」
バットを肩に担ぎ、客間を見やる。未だ金縛りがとけないらしく、布団にくるまった淳平が青ざめていた。まじか、とその顔に書いてある。
体が動いたら多分止められていたから、今回は動かないのがありがたい。
ちあう。
否の返事と共に、一瞬、むせ返るほど甘い煙草の匂いが鼻をついた。
「じゃあ、何に」
静かに聞けば、影の輪郭が正面に向いた。
これはさすがに、意表をつかれた。
「……俺?」
なるほど。目的のための最短距離を選ばない思考に少しだけ感心する。
確かに彼として近づいてきた場合、俺も今みたいな力技はできない。人質としてとられたら、選択肢はそう多くないだろう。
「いいよ」
ということは、目的を知った俺がここにいる以上、淳平に害が及ぶことはない。毒気を抜かれて、俺はバットを庭に放り捨てた。
両腕を広げる。
「こんなんでよければ、どうぞ」
女の生き霊は一気にざわめき立ち、空洞の目が輝くのがわかった。煙草の匂いが濃く立ち込めた。
女が近づく。
俺になって彼女は何をするつもりだろうか。お金、欲、名誉?女は滑るように接近し―――――しかし、触れる直前でぴたりと、止まった。
「どうかした?」
女の顔は眼前にある。少し動けばキスができそうな距離で俺は、先程まであった相手の喜色が消失したのを見てとった。
ひたり
肩に粘着を伴う肉が置かれる気配がした。
ゆっくりと『それ』が俺の肩の上で伸び上がる。
一見すれば山椒魚のような形をとるそれは、よく見れば冗談のような数の人体でできているのがわかるだろう。浮世絵にある、人を寄せ集めた顔のように。
山椒魚が動くたびにギュウギュウに押しつぶされるモノたちが、同時に、ガラスを掻くような悲鳴や怒号を上げる。鼓膜の存在を必要としない金切り声は、脳内に幾重にも木霊した。
蛇に睨まれた蛙のように、戦意を喪失した生き霊に向けて山椒魚が口を開ける。途端に、人の悲鳴は何百倍にもなり女に叩きつけられた。
不愉快。
醜悪。
おぞましい。
奇怪。
そのあたりの全ての単語を混ぜ合わせたような、うちの祀り神サマ―――――いち、が獲物を見定めたようで身を乗り出す。
目の前の女になんら興味はなかったが。
生き霊として、寝ている間に抜け出た魂の一部がいちに喰われれば本体がどうなるか、そこだけは気になった。
「おめでとう。これで君は俺と同じになれる」
口から出た言葉は、自分でも滑稽なほど無機質なもの。
生き霊が悲鳴を上げて逃げ出した。
「……いーち抜け」
「だぁぁ!」
淳平の声が飛び込んできた。
思いっきり後ろから、いちごと抱きつかれて瞬間的に心臓が止まる。
「っ」
咄嗟に振り払って振り向くのと、障子の残骸の中に淳平が転がるのが同時だった。
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