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カノン:リフレイン
しおりを挟む私の両親は、三歳の頃に亡くなった。人間へ明らかな敵意を持つ生物が、村や街の外へ出ればいくらでも襲ってくるこの時代において、それは珍しい事でも何でもなくて。
それでも私は、悲しくて寂しくて。
程なくして遠い親戚に引き取られる事になった。元居た村の隣町に一人で住む叔母は、優しい人だった。喉が枯れるまで泣くだけ泣いて空っぽになった心を埋めるには十分な程に。
美味しいご飯も、暖かなベッドも、彼女は惜しみなく与えてくれたのだ。
けれど。
「カノン、今日からこの人達が、あなたの家族になります。元気でね」
たった数日で、叔母は私を売ったのだった。
優しかったのも、今思えば数日の事だからという、気軽さからだったのかもしれない。
「ほう。孤児にしては、なかなか……」
「読み書きは教えてあるのでしょうね?」
「ええ、両親が早くから教育していたようで。手がかかりませんでしたよ」
下卑た笑みを浮かべる太った男と、底意地の悪そうなキツい物言いの女が私を迎えに来た。
叔母がそいつらから大金貨二枚を受け取って、柔らかく微笑んだのが怖くて仕方なかった。
連れてこられた新しい家は、町から遠く離れた雪深い村だった。その家族が村長をしていて、一際立派な建物に案内される。
「今日からお前は、ここで家事をするんだ。部屋はその階段の下だ。朝起こしてやる」
そうして、私の地獄はあっさりと始まった。
お世辞にも部屋とは呼べない物置。積み上げた本に薄くて埃っぽい布を被せただけのベッドもどき。
灯もなく、不便で心細くて、枯れたと思っていた涙がまた溢れていた。
それから私の毎日は、色を失う。
早朝の冷たい空気で目を冷まし、炊事洗濯、掃除、それから夫婦の息子から受ける嫌がらせ。
食事は残り物で、満腹感を味わった事はなかった。入浴もさせて貰えず、裏庭の井戸で日が登って暖かい時間に手早く済ませるしかなかった。
「おいお前。奴隷のくせに服なんか着るな!」
ここの一人息子【ビネゴ】は、そう言って私の服を破って楽しそうに笑う。別の日には泥や冷水を浴びせられたり、私の分の食事を踏み付けて見せたり。
それでも私は抵抗しなかった。もうそんな気力はすっかり無いのだ。
いつ死ねるのだろう。
そう考えながら眠る毎日だった。お父さんとお母さんに、ただただ会いたかった。
そんな毎日でも数少ない自由な時間は、物置に積まれた様々な本へ費やした。
魔法の教典から、冒険活劇、若い男女の恋愛模様を描いたものから絵本まで。
私は魔法を扱う資質が多少はあったらしく、経典を頼りに灯りを得たのはこの生活が始まってから半年程経ってから。
皮肉にもこの生活に必要な生活魔法と呼ばれる簡素なものばかりだったし、ましてやそれを駆使して逃げる方法は思い付かなかった。
「わたしのところにも、この本に出てくるような勇者さまが来てくれればなぁ」
有り得ないと分かっている。夢を見る権利も私にはない。
けれどもしこんな人生でなかったなら、本の中に広がる世界の一員になりたい。
そうして現実逃避をしながら、私の地獄が始まって五年が過ぎようとしていた頃の、ある日の出来事。
「カノン、仕事が終わったら私の書斎へ来なさい」
家長であり村長を務める旦那様の【グラウス】が、私へ声をかけてきた。妙に優しげな声に動揺しながらも、まだ八歳に満たない子供の私は従うしかなかった。
いくら不安と恐怖に駆られようとも、その時はやってきてしまう。いったいどんな仕打ちを受けるのか、当時の私には想像も付かなくて。
「し、失礼……します」
震える手でノックをし、恐る恐る扉を開ける。室内にはいくつかの燭台があり、ぼんやりとした灯りに照らされてニヤつくあの男の顔は、今でも脳裏に焼き付いている。
本当に気持ちが悪くて、怖くて。
「カノン、座りなさい」
「で、でも、そこは」
「座れといっているだろう」
顔に張り付けた下卑た笑みで、グラウスは手招きをしながら自分の膝をポンポンと叩く。
「……は、はい」
悪意に満たされたその仕草に、全身が錆びてしまったのではないかと思うほど、動きが固くなった。今まで近くを通るだけで怒鳴り付けてきたこの男が、手の平を返して優しく振る舞おうとしているのだから、無理もない。
心臓の音が、全身に響いている。
一歩踏み出す度に軋む床の音も、蝋燭の燃えるにおいも、深夜の冷たい空気も、乾いた口の中からじわりと滲む血の味も、全てがいつも以上に主張しているような、恐怖の感覚。
断頭台に登る気分とは、こういうものなのかもしれない。身投げに適した崖に立つというのは、こういう状態なのかもしれない。
「いい子だ」
俯いてゆっくりと、言われた通りに、グラウスの膝へ座った途端、抱き上げて位置を直され、奴の膝へ深く腰掛ける形になった。
髪の匂いを嗅ぐ鼻息が、鼓膜を無遠慮に撫でる。肩から胸へ回された手は汗ばんでいて、気持ち悪くて吐きそうだった。
「お前は仕事も出来るし、賢くて、従順で、可憐で……ふっふっふっ……」
「い、いや……です」
何が起きようとしているのか、当時の私はわからなくて、それでもこの状況が途轍も無く悪いことだけはわかって、怖くて、怖くて、でも声が出なくて。
「妻はお前を蛇蝎の如く嫌っている。だがワシは違う。お前が愛おしくてたまらない」
「やめ、て……くださ……」
分かりやすくされてやっと意味はなんとなく理解できた頃には、凄まじい嫌悪感と恐怖で泣くことしか出来なかった。
「お前が欲しいんだ、カノン」
「や……いや……っ」
「何を怯える必要があるんだ?ワシのものになれ。そうすれば妻から、息子からお前を守ってやる……そうだな、娘として迎えよう。家族になろう。お前の望むものは全て与えてやる」
「ゆるしてください、ゆるしてください」
呪詛のように紡がれるグラウスの言葉で、涙も鼻水も止まらなかった。これ以上の地獄への誘いだと思った。
「ひひっ、ふふふっ!!ああ可愛いワシのカノン。もう泣くことはないんだ、ワシの娘よ」
「いや、いやです!いやだ!!離して!!」
限界だった。気が付けば大声で泣きながら暴れていた。
私の記憶の限りでは、これ程泣き叫んだのは両親の死に直面した時以来だろう。
「こら!静かに……っ」
狼狽えるグラウスに床に組み敷かれて口を塞がれていたその時、騒ぎを聞き付けて飛び込んできたのは、その妻【メザー】だった。
「何をしているのです?!カノン!!」
「ごめんなさい、ごめんなさい、わたしは悪くないです、だんな様が、わたしを、呼び出して」
「ち、違う!このガキがっ!ふざけた事を抜かしおって!!」
その後、結局は全て私のせいになった。同じ性別であろうと、奴隷の言葉が届くはずもなかったのだ。
その晩に、私は着の身着のまま雪の中に放り投げられた。
メザーは、金を出して買った奴隷を失うよりも、夫の愛を他へ向けさせる事を許さないという結論に至ったのだろう。
思いもよらない形ではあったけど、私はその日から地獄を這い出る事になった。
しんしんと降り積もる白い雪が、初めて綺麗に見えた。冷たくて寂しい綺麗さだと。
何処へ行っていいのか分からなかった私は、村の外に見える山を何となく目印にして、宛もなく彷徨うことになる。
どうせ死ぬなら、静かで、綺麗なところがいい。
山を彷徨い、何度日が昇ったか分からなくなった頃。
私は川を近くに見つけたところで、糸が切れたように意識を失った。
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