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1 悲しみを糧にする魔女

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 わたしの耳には今日も、誰かの、声にならない悲しみが聞こえる。でもそれは、この世界のものではない。誰も越える事ができない狭間の先の、全く別の世界からの悲鳴なのだ。

 そんな誰かの悲しみは、わたしを幸福の泥沼へ沈めてくれる。悲しみが重なり合い、耳を切り裂くような悲鳴になればなるほど、わたしの心は高揚し、快感を覚える。

 だって、わたしはいい魔女でも、悪い魔女でもないのだ。天気と同じ。移ろいやすく、気まぐれに恵みを与え、牙を剥く。

 わたしは、わたし以外の誰も訪れる事のない、世界の狭間の前に立っている。胸を締め付けるほどの悲しみが、わたしに足を向けさせた。ここまでの悲しみを聞くのは、どれだけぶりだろう。自然と舌なめずりをしてしまう。

 わたしは、狭間へと手を突き出し、躊躇う事なく切り裂く。すぐに塞がりはじめるその隙間に、触れた。

「捕まえた」

 強く握り締め、渾身の力で引き摺り出す。ずるりと、力を失った体が目の前に落ちてくる。

 この世界にはない服を身につけた、男。わたしは、うつ伏せの体を足の先で蹴飛ばすように転がす。
 意識のない顔は、絶望に満ちているように見えた。

「ああ、やってしまったな」

 意味のない懺悔を戯れで口にする。あちらの世界のものをこちらに連れてきてしまったわたしを、罪に問える者などいない。
 これをもし罪だと言うのなら、こんな力をわたしに与えたこの世界が背負えばいい。


「目が覚めたら、迎えにきてやるよ」

 わたしはそう言い残して、家へと戻った。

 ――

 うたた寝をしてしまった。あの男は、どうやら目覚めているようだ。離れていてもそれくらいは簡単に分かる。

 日が落ちかける中、わたしはあの男の元へと戻る。男は、地面に座り込んだまま、落ちゆく日を眺めていた。
 わたしはその背中を軽く蹴る。でも、男は振り向きもしない。

「おい」

 声をかけて、もう一回背中を蹴る。それでも、反応がない。わたしは、男の前に回り込み、顔を覗き込む。その顔は死人のようで、流れる涙だけが生きている証のようだった。

 わたしは、男の前に膝を付くと、耳を塞ぐように両手で男の顔を挟み込み、わたしに視線を向けさせようとした。でも、その視線は虚ろで、わたしをちっとも認識しない。

「心が死んでしまったんだね、可哀想に」

 わたしは心の底から笑いながら、手を滑らせ、首を包み込み、親指を軽く押し込む。

「……っ」

 小さい呻き声。でもそれ以外、反応がない。

 ……命乞いをするなら、殺してやろうと思っていたのに。

「可哀想に。お前はまだ、死ねないよ」

 男は意識を失い、わたしの胸に倒れ込む。わたしはその体を受け止め、子にしてやるようにそっと男の頭を撫で、そしてその体を抱え上げた。
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