• 『社交界の華は、影に咲く毒。〜私を捨てた世界、すべてお返しいたします〜』

ヨォコ

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第2章:黄金の瞳の覚醒 〜

第3話:絹の寝着と、部屋の隅の安らぎ

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お湯で洗われ、クラウス先生による手当てが終わる頃、私の感覚は麻痺していました。
背中や足に塗られた薬は、これまで経験したことのないほどひんやりとしていて、その冷たさが逆に「私は今、生きているんだ」という現実を突きつけてくるようでした。
「さあ、お嬢様。仕上げはこちらを」
マーガレットさんが恭しく捧げ持ってきたのは、雪のように白く、触れるのを躊躇うほど滑らかな絹の寝着でした。
彼女に促されるまま袖を通すと、あまりの軽さに不安が込み上げます。
(こんなに綺麗な服……もし汚してしまったら、どんな罰が待っているんだろう)
「……あの、マーガレットさん。やっぱり、さっきのボロ布を返してください。私、こんな、貴族様みたいな格好をしていたら……バチが当たります」
震える声で訴える私に、マーガレットさんは膝をつき、私の小さな手を自分の両手で包み込みました。彼女の手は、私の手とは正反対に、温かくて、凛とした強さがありました。
「お嬢様、よろしいですか。この屋敷にあるものは全て閣下のものです。そして閣下は、これらをお嬢様のために使うと決めたのです。貴女がこれに袖を通すことは、バチが当たることではなく、閣下への忠誠なのですよ」
「……ちゅうせい……?」
難しい言葉に私が小首を傾げると、彼女はふっと表情を和らげました。
けれど、その直後、彼女の視線が私の細い首筋に向けられたとき、私は見てしまいました。彼女の袖の奥で、何かがカチリと硬い音を立てたのを。
それは怒りでした。私に向けられたものではなく、私をこんな姿にした「誰か」への、静かで猛烈な殺気。
でも、彼女はそれを私に悟らせないよう、深く息を吐いてから立ち上がりました。
「さあ、お部屋へ戻りましょう」
案内された寝室は、一つの家が丸ごと入ってしまうのではないかと思うほど広く、中央には天蓋のついた巨大なベッドが鎮座していました。
「今夜はこちらでお休みください。……お嬢様?」
私が一歩も動けずに立ち尽くしていると、マーガレットさんが不思議そうに私を見つめました。
私の視線の先には、ふかふかの枕と、刺繍の施された掛け布団。
(……あんな山のようなベッド、私なんかが登ったら、きっと沈んで消えてしまう)
(あそこは、お姫様が寝る場所だ。私みたいな『ゴミ』が汚していい場所じゃない)
胸が苦しくなり、呼吸が浅くなります。
私はベッドに背を向けると、這うようにして部屋の反対側、重厚な本棚と壁の間にできた、わずか三十センチほどの暗い隙間へと逃げ込みました。
「……っ! お嬢様! 何をなさるのですか!?」
驚いて駆け寄るマーガレットさんから逃げるように、私は壁に背中を預け、膝を抱えて丸まりました。
冷たい床。狭い視界。埃の匂い。
ああ、ここだ。ここなら、誰にも見つからない。ここなら、叩かれる前に気づける。
「……ここ、がいいです……。ここは、私にぴったりだから……。ここなら、汚しても、怒られないから……」
「お嬢様……そんな、隅っこの冷たい場所で……。せめて、ベッドへ。閣下がこれをご覧になったら、どれほどお心を痛めるか……」
「いや! 怖い、怖いです……あんな高いところ、落ちちゃう……。ここなら、誰も来ないから……お願い、捨てないで、ここなら静かにしてるから……っ!」
私は頭を抱え、必死に懇願しました。
マーガレットさんは、差し伸べようとした手を空中で止め、唇を強く噛み締めました。彼女ほどのベテランのメイド長が、かけるべき言葉を失い、立ち尽くしている。
……長い沈黙が流れました。
やがて、彼女は静かに立ち上がると、無言でベッドの方へ向かいました。
(やっぱり、怒らせちゃったんだ。追い出されるんだ)
そう思って目を瞑った私の耳に、衣擦れの音が聞こえてきました。
彼女はベッドから枕と、一番厚手の羊毛の毛布を持ってきたのです。
そして、私の目の前の床に、それを丁寧に敷き詰めました。
「……マギーさん?」
「今夜は、ここをお嬢様の『お城』にいたしましょう。……ですが、お約束してください。床に直接触れてはなりません。この毛布の上から動かないと、お約束いただけますか?」
彼女の口調は、先ほどまでの「メイド長」ではなく、迷子を見守る「母親」のような、切実な響きを含んでいました。
「……はい。約束、します……」
私は敷かれた毛布の上に這い出しました。羊の毛の温かさが、ガタガタと震えていた私の体を包み込んでいきます。
マーガレットさんは、私のすぐ隣に椅子を引き寄せると、そこに腰を下ろしました。
そして、彼女は自分のエプロンの下に隠し持っていた、小さな護身用の短剣をさりげなく取り出し、膝の上に置きました。
「私はここで、一晩中お嬢様の眠りを見守ります。……何があっても、誰一人として、この隙間に近づかせはいたしません。ですから……安心してお眠りなさい」
暗闇の中、彼女がゆっくりと、私の背中を一定のリズムで叩き始めました。
トントン、と。
狭い隙間、硬い床。けれど、そこには人生で初めての「守られている」という実感がありました。
私は絹の寝着に顔を埋め、こみ上げる涙を毛布に吸わせながら、深い眠りへと落ちていったのです。

深い眠りに落ちたエレーナの小さな寝息が、部屋の隅の暗がりに静かに響いていました。
マーガレットは、毛布の中で丸まり、絹の寝着の袖をぎゅっと握りしめているエレーナを、しばらくの間、言葉もなく見つめていました。その瞳には、一国の家政を預かる冷徹なメイド長としての顔ではなく、一人の女性としての、張り裂けんばかりの憤りと慈しみが混ざり合っていました。
「……お可哀想に。高貴な寝床さえ、貴女には恐怖の対象なのですか」
マーガレットは音もなく椅子から立ち上がると、熟練の暗殺者が獲物を仕留める時よりも慎重な手つきで、毛布ごとエレーナを抱き上げました。
羽毛よりも軽いその重みに、マーガレットの奥歯が微かに鳴りました。彼女はそのまま、ゆっくりと歩を進め、先ほどエレーナが拒絶した広大な天蓋付きベッドへと向かいました。
シーツのシワひとつ作らぬよう、そっと、沈み込むようなふかふかのマットレスの上にエレーナを横たえます。
エレーナは夢の中で何かから逃げるように眉間に皺を寄せましたが、マーガレットがその額を指先で優しく撫でると、安堵したように再び深い眠りへと沈んでいきました。
マーガレットは枕元に護身用のナイフを隠すように置き、一歩下がってから、部屋の影に控えていた一人の若いメイドに鋭い視線を向けました。
「アン。貴女が今夜、ここでこの子を見守りなさい」
呼ばれたのは、マーガレットが自ら厳しく仕込んだ、屋敷で最も口が堅く、武術の心得もある若いメイドでした。
「はい、メイド長。……あのお子様が、閣下の……?」
「それ以上の詮索は不要です。いいですか、もしあの子が目を覚まして怯えるようなことがあれば、無理に動かそうとせず、ただ傍にいてあげなさい。……それと、お二人の若君が万が一にも押し入ろうとされたら、私の命(めい)として全力で阻止すること。よろしいわね?」
「承知いたしました」
アンがエレーナの傍らで静かに膝をつくのを確認すると、マーガレットは一度だけベッドの上の小さな影を振り返り、それから音もなく部屋を後にしました。
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