さらば、愛しき夫よ

七天八狂

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第一章 早苗

16.モラハラとDV

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 飲み会があった翌日の土曜日、早苗がいつものように早めに目を覚ますと、普段ならお昼近くまで寝ているはずの智也の姿がなかった。

 起き上がろうとした時に、頬と口元に痛みが走った。 
 ああ、そうだったと昨夜の情景が蘇る。突き飛ばされたことは何度かあったが、殴られたのは初めてのことだった。

 洗面ついでに鏡の前で腫れの程度を観察した。昨夜よりも腫れている。実際に痛みもあるし、見た目にも痛々しい。外出はしないほうがいいと判断し、自宅に引き籠もることにした。

 翌日曜日も智也は帰らず、一人きりで過ごした。

 飲み会での生田との会話、その時の自分の感情、その後に受けた智也からの仕打ちを何度も思い返し、後悔と自責に頭を悩ましていた。

 EMA522からのメールに書かれていた文面も何度も頭をよぎった。夫からのモラハラやDVという概念だ。
 よぎるたびに、それに反論するように智也から教えられた言葉を思い返すも、ふと気がつくと、それらについて検索している自分がいた。しかしそこには、泥沼の離婚劇に進むか、後悔と謝罪の後に再構築するかのストーリーがあるばかりで、自分たち夫婦のことに照らし合わせることは難しかった。

 そこに書かれている夫と智也が重ならない。そんな人じゃない。優しくて、気遣いのある人だ。モラハラに見えるような部分は、至らない妻を律してくれているだけで、暴力は反省を促しただけだ。したくないのに仕方なくしただけで、それをさせた自分が悪い。当然の仕打ちなのだ。

 早苗は何度も検索し、反駁し、そう結論づけた。

 智也は日曜日の夜になってようやく帰宅した。
 機嫌がすこぶるよく、当日よりも腫れ上がった頬を見て、お袈裟なほど心配して気遣ってくれた。

 友人と小旅行をしてきたことを喜々として語り、今度は一緒に行こうと、何度も旅行の様子を話した。
 家事の上手さを褒めてくれ、旅館の料理と比較しながら手料理の素晴らしさを詳細に語り、優しく肩を抱き、胸に引き寄せ、髪を撫でながら愛を伝えてくれた。
 早苗は痛みに耐えながら頷き、返答し、智也に身を任せた。

 しかし智也がどんなに優しい言葉をかけてきても、愛情あふれる仕草で触れてきても、それを素直に受け止めることはできなかった。怒鳴り声や殴りかかってきたときの表情が浮かび、顔を見る度にそれが二重に映し出されて恐ろしくなったからだった。

 数週間ぶりに智也と同じベッドで眠ったものの、気を使って姿勢を変えることができず、朝起きたときは、寝たことで逆に疲れが溜まったかのような疲労感を覚えた。

 頬の腫れは引き始めていたが、まだ見てわかるくらいには腫れている。
 パート先で何かを言われるかと案じたが、義母は驚き、心配しながらも、「自分で転んでバランスを崩したせいでぶつけてしまった」という早苗の作り話をそのまま受け止めて、鈍臭い嫁だと笑い飛ばした。

 生田とは顔を合わせることはなく、他の従業員は義母から話を聞いて納得するだけで、それ以上追及してくる人はいなかった。もし問い質されでもしたら、これ以上は隠せないと不安だったため助かった。殴られたことが未だ生々しく残り、処理しきれていなかったからだ。


 数日経って化粧で隠せば痣が目立たなくなるほど回復した頃、久しぶりに生田と休憩室で一緒になった。

 怪我が癒えているのに蒸し返すのも憚られたのか、多少噂になってはいただろうに、怪我に関しては何も言わず、挨拶を交わしただけだった。
 そのとき、生田は同僚に、しばらく外回りが続いて定時でも帰れないと愚痴っていた。

 早苗はそれを聞いてホッとした。定時で帰れないということは、送迎はできないということだ。

 あの夜を経た今では、とても二人きりにはなれない。誘われても断るしかなく、また断ること自体気が引ける行為で、誘われないほうがありがたい。
 思い返すだけで身悶えするほど恥ずかしく、忘れてしまいたかった。なかったことにしたいと願い、もう二度と生田と二人きりになりたくないと思った。


 帰宅して家事を終わらせ、一息ついたとき、スマホが振動した。
 画面を見て、また間違い電話かと苛立った。
 覚えているわけではないが、ここのところ090で始まる携帯の番号から何度か着信がある。同じ相手が何度も間違えているのだろう。そう思うほどしつこい。

 そうであるならば、指摘しない限りずっとかかってくるかもしれない。面倒だが仕方がないと、電話に出ることにした。
 
「はい」
『あ……』
「番号、間違えてますよ」
『え? ……柏木早苗さんの携帯では……なかったですか?』

 自分の名を口にしたことと、聞き覚えのある声でぴんときた。

「もしかして……桐谷さん?」
『あっ、すみません! 名乗っていませんでしたね』

 焦ったような声が返ってくる。まさに桐谷だ。電話の向こうで焦っている様子が今にも目に浮かんでくる。

「どうなされたんですか?」
 思い描いたイメージがおかしくて、少し笑いながら答えた。

『あの、最近モンパルナスにも来られていませんし、Xも……あ、いや、すみません』

 ツイキャスだけでなくXのアカウントまでチェックされているらしい。連携しているから当然だが、そこまで監視されていると思うといい気はしない。 
「もしかしてスマホを確認したときに私のアカウントを見たんですか?」
 だから牽制のためにも気づいていることを伝えた。

『あ……いや……』
「なんなんですか? 電話までかけてきて、何がしたいんですか?」
『え……その……』
 言い出したら止まらなくなり、つい詰め寄ってしまったが、しどろもどろで要領を得ない。
「もう掛けてこないでください」
 だからか少しカッとして、それだけ言って通話を切った。

 いい人そうだし、話していても不快感はないのだが、ストーカー紛いの行動は不可解で、それに関しては不愉快だった。
 この通話も智也に取り繕わねばならないのに。
 そう考えて、消去すればよいと思いつく。

 そして何件か桐谷からの着信を削除した。
 しかし、一件だけは残すことにした。またいつかかかってきたときに、それとわかるようにしておくためだったが、なんとなく全て削除するのは憚られたのだった。 
 チェックされているとはいえ、何かされたわけではない。ただ、しばらくポストもツイキャスもしていないからと、心配しているだけのようだった。

 心配してくれる人は、EMA522を除いて他にいない。本当のところ、その事実が削除の手を止めさせたのだった。
 
 
 怪我をした日からの智也はずっとご機嫌で、人が変わったかのように優しくしてくれていた。大げさにも怪我をしたせいで気を遣わせているのかもしれない。自分のせいなのに申し訳ないと卑下しつつも、平穏な日々はありがたかった。


 しかし、その日帰宅した智也の機嫌は悪かった。

 帰宅するなり、命令することすら面倒だとばかりに身振りで要求を示し、食事に細かく文句を言い、手際の悪さをあげつらい、慌てる様子を罵倒した。しかしそれでもまだ収まらないと言って、またもや手を上げられた。見える位置だと面倒だからか、ボディばかりを殴打された。胸や腹、背中などを罵声とともに何度も殴りつけられ、たまらず咳き込むと、「軽く叩いただけなのに大げさだ」と嘲笑された。

 早苗は恐怖ですくみ上がり、早く終わってほしいと、それだけしか考えられなかった。

 しばらくして智也は別人のようにすっきりとした表情になり、「可哀想に」と言って、自分が負わせた怪我なのに、まるで他人から受けたものとばかりに憐れみ、優しく気遣う素振りを見せてくれた。
 その変わりように慄き、触れようと手を伸ばした智也から身を引いてしまった。
 すると睨まれ、智也は「せっかく心配してやったのに。かわいくない」と吐き捨てて、寝室へと消えていった。

 早苗は痛みをこらえながらのろのろと立ち上がり、食後の皿を片付けた。

 痛みのせいか、智也への恐怖か、自分への嫌悪か、次々と涙が溢れてきた。そして、何も考えようとせずただ機会的に目の前の家事をこなした。
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