さらば、愛しき夫よ

七天八狂

文字の大きさ
21 / 60
第二章 絵麻

21.後任の執事

しおりを挟む
 進藤しんどう絵麻えまは、二週間ほど夫に会っていなかった。
 珍しいことではない。月に二度も会えばいい方だろう。同じベッドで眠ったことすらない夫だ。新婚初夜もベッドは別々で、朝になる頃は部屋にすらいなかった。

 目覚めてすぐに夫のことを思い出すなんて、悪い夢でも見たのだろうかと不愉快な気分になる。
 すぐに気分を変えてしまおうと、執事を呼び出すボタンを押して、目覚めたことを報せた。

 すると、父の代から仕え、婚家までともについてきてくれた執事の影谷かげたにが、紅茶を持ってきてくれる。
 彼の紅茶でなければならないのだ。他の者が淹れたものは同じ茶葉を使って、同じ淹れ方をしてもまるで味が違う。

「失礼します」

 寝間着にガウンをひっかけただけの姿だが、影谷は赤ん坊の頃から仕えている父のような存在なのだから、はばかることはない。
 はずが、トレーを手に現れたのは若い男性だった。しかも見知らぬ人物ではない。

 驚きまじまじと見て、思い出した。
「影谷……レオ?」

「はい。おはようございます」
 レオはベッドの脇にあるサイドテーブルにトレーを置いた。

 やはりそうだった。目が隠れるほど伸ばした黒い髪、その前髪の隙間からじっとこちらを見る三白眼。ほっそりとした顎はまだ少年のようで、背丈も絵麻と変わらない。この目つきの悪さ、陰鬱な雰囲気、そして一時も目を離さないというように、こちらを見つめる眼差しは強烈に印象に残っていた。

「何年ぶり?」
 絵麻は聞いた。中学にあがった頃に一度会った気がするから10数年ぶりだろう。影谷は幼い息子をたまに連れてきていたが、それが最期だったように思う。

「13年と117日ぶりでございます」
「なに? その細かさは」
 絵麻はゾッとした。
「絵麻様が私を認識した日という意味で申し上げれば13年と117日ぶりですが、一方的にという意味で申し上げれば3日と16時間32分ぶりです」
 なにこいつ。キモい。
「どういう意味よそれ」
「絵麻様が事故に遭われぬように、見守らせていただいておりましたので」

 ああそう言えば、と思い出す。一年前にあと一歩で車に轢かれる寸前だということがあった。そのとき父に護衛をつけると言われて、断固として拒否したのだった。見守っていたと言うならおそらくそれが理由だ。

「じゃあなんで今ここにいるのよ」
 同じ影谷でも、紅茶を持ってくるのは父のほうの影谷の仕事である。
「父に教わって習得いたしましたので、お試しください」
「つまり、これは影谷が淹れたものじゃないの?」

 そんなものを持ってくるなんてと暗に含んだ物言いをしたが、レオは平然と答えた。
「はい。どうぞ」

 仕方なく、絵麻は紅茶に口をつけた。
「ん……」
 意外で、思わず声が出た。

 レオは「ええ、父に比類しているでしょう」と言わんばかりにニヤリとした。

「もう用はないわ。着替えるから出ていきなさい」
 むっとした絵麻は、感想を述べずに素気なく言った。
 しかし、既に感想はいただきましたとばかりにうやうやしく頭を下げて、レオは部屋を出ていった。

 あのキモさと目つき、そしてニヤリとした顔。
 一気に記憶が蘇った。

 確か3つくらい年下だった気がする。小学生のころ、たびた自邸へ来ていた。夫の清澄きよずみも、義姉の清香さやかもいるときで、仲の良い姉弟の輪に入れず、一人で遊んでいるときに、レオは戸惑いがちに相手をしてくれたのだった。

 相手をしてくれたというのは違うな、と振り払う。

 絵麻が寂しいから声をかけて、遊びに誘い、無理やり付き合わせたのだ。弟が欲しかったから、サッカーやバスケットをしたり、ゲームの相手をさせた。レオはそのすべてが弱く、必ず勝てるので満足感が得られ、何度も遊びに誘った。まったく喋らないし笑いもしない。陰気で、じっとこちらを伺うように見ている。上目遣いだから睨みつけているように見えるが、たまに褒めるとニヤリと笑う。不気味だか不快感はなく、彼なりに楽しんでいる様子が伺えた。
 夏場で薄着になるとあちこちに怪我の跡が見えて、子供心に苛められているのではないかと案じて、優しくしてやろうと気遣ってやった気もする。

 合計しても10回会ったかどうかという頻度だったため、うろ覚えだった。しかし、裕福な家庭の子どもたちに囲まれていた絵麻にとって、レオは珍しい存在で、熱っぽく見つめるあの目つきは、深く印象に残っていた。

 そんなレオがまさか執事になるとは。

 驚いたうえに影谷が来なかったことに不満を覚えたが、あの紅茶の味からは相当な努力が伺われ、まあいいかと気を散らした。

 それよりもと、着替えのためにクローゼットへ向かう。
 今日は外出したい気分だった。
 ならば買い物とランチをしようかなと思いつき、服を選ぶ。
 
 鏡に映る自分を見て、その人目を惹く美貌をまじまじと観察した。

 レオの眼差しは見慣れたものだった。異性だけでなく同性からも向けられる。
 美への陶酔と羨望。
 スウェーデン出身の母によく似て、肌も髪も色素が薄い。背中まで伸ばした薄茶色のその髪は、アイロンを使わなくてもカールしている。青味がかかった目はぱっちりとして、鼻筋は通り、唇はふっくらとしている。父の要素は少なく異国の顔立ちだ。

 義姉の清香も美人だが、まったく違うタイプだ。清澄はそちらがタイプなのだろう。姉弟のくせに、気持ち悪い。
 またも夫のことを思い出し、慌てて振り払う。

 気を取り直そうと、朝食のためにダイニングルームへ向かった。

 テーブルのうえには既に用意がされていた。焼き立てのパンにオムレツ、フルーツの乗ったヨーグルトにシンプルなサラダ、オレンジジュースとコーヒーだ。
 端に各種取り揃えられた新聞が置かれている。夫のために毎朝きれいに並べられているが、手にしたことはないだろう。この家になどほとんど寄り付かないのだから。

 食事を終え、スマホを取り出してメールを確認した。
 サカ☆カササギからの返信はない。コーヒーを飲みながら、何通かのメールを読み、必要な分だけ返信をした。

「絵麻様、車は何時ごろにご用意いたしましょうか?」
 近づいてきたのは影谷だ。
「いつの間にレオを執事にしたの?」
 不満を含ませた声に、影谷はうやうやしく頭をさげてからゆっくりと答えた。
「本日からでございます」
 毎度のことながらもったいぶる男である。
「なんで相談もなく私の専属にしたのよ?」
「申し訳ございません。奥様が私めに戻ってきて欲しいとおっしゃられているそうで、旦那様から申し付けられました」

 奥様は絵麻の母で、旦那様は清澄ではなく絵麻の父である。もともと絵麻の実家に仕える執事なので、本来の職場は西条家なのだ。

「レオは厳しく教育し、引き継ぎも済ませましたので、私めに言いつけるように扱っていただければと存じます」
 父母の命令ならば絵麻が口を挟める問題ではない。ここは進藤家で、主人の清澄に無理を言って影谷を置かせてもらっていたのだから。
「……わかったわ。車は、今すぐに」
「かしこまりました。既にロータリーにつけております」

 絵麻の行動を先読みし、準備を整えてくれる。こんな真似ができるのは影谷しかいない。レオにできるのだろうか。


 玄関を出ると、車の後部座席のドアを開けて待機しているレオがいた。

「どちらへ行かれますか?」
「買い物よ」
「かしこまりました」

 影谷ならこれで通じる。レオを試したのだったが、ちゃんと行きつけのブランド店へ向かってくれた。
 仕事をこなしてくれるのなら文句はない。

 しかし、影谷はこの居心地の悪い進藤家の中で、唯一心を開ける存在だったのだ。
 結婚して二年、仕事もさせてもらえず、家事などもする必要がない。金銭的制限もなく、夫とともに食事会なりに赴く以外は全て自由。毎日が休日のようだが、だからこそ無気力になり、鬱々とするのだ。
 ほとんど顔を合わせない夫の金で生活し、帰らない家に居続ける。
 仮初めの日々のような気がして落ち着かない。自分の人生を生きている気がしないのだ。
 その中で、影谷だけは自分を理解してくれて、頼れる存在だった。

 レオがそのような存在になってくれるのだろうか?
 不安しかない中で、また一つ自身の望みを諦めたのだった。
 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります> 政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・? ※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

今さらやり直しは出来ません

mock
恋愛
3年付き合った斉藤翔平からプロポーズを受けれるかもと心弾ませた小泉彩だったが、当日仕事でどうしても行けないと断りのメールが入り意気消沈してしまう。 落胆しつつ帰る道中、送り主である彼が見知らぬ女性と歩く姿を目撃し、いてもたってもいられず後を追うと二人はさっきまで自身が待っていたホテルへと入っていく。 そんなある日、夢に出てきた高木健人との再会を果たした彩の運命は少しずつ変わっていき……

さようなら、お別れしましょう

椿蛍
恋愛
「紹介しよう。新しい妻だ」――夫が『新しい妻』を連れてきた。  妻に新しいも古いもありますか?  愛人を通り越して、突然、夫が連れてきたのは『妻』!?  私に興味のない夫は、邪魔な私を遠ざけた。  ――つまり、別居。 夫と父に命を握られた【契約】で縛られた政略結婚。  ――あなたにお礼を言いますわ。 【契約】を無効にする方法を探し出し、夫と父から自由になってみせる! ※他サイトにも掲載しております。 ※表紙はお借りしたものです。

よめかわ

ariya
恋愛
遊び人として名高い貴族・夏基は、不祥事の罰として「醜聞の姫」白川殿と政略結婚することに。 初夜、暗い印象しかなかった姫の顔を初めて見た瞬間――大きな黒目がちな瞳、薄桜色の頬、恥ずかしげに俯く仕草に、夏基は衝撃を受ける。 (可愛すぎる……こんな姫が俺の妻!?) 亡き恋人への想いを捨てきれず、夫を拒む白川殿。 それでも夏基は過去の女たちに別れを告げ、花を贈り、文を重ね、誠心誠意尽くして彼女の心を溶かしていく。 儚くて純粋で、泣き顔さえ愛らしい姫を、夏基はもう手放せない―― 平安貴族の切なく甘い、極上よめかわ恋物語。 ※縦読み推奨です。 ※過去に投稿した小説を加筆修正しました。 ※小説家になろう、カクヨム、NOVELDAYにも投稿しています。

壊れていく音を聞きながら

夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。 妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪 何気ない日常のひと幕が、 思いもよらない“ひび”を生んでいく。 母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。 誰も気づきがないまま、 家族のかたちが静かに崩れていく――。 壊れていく音を聞きながら、 それでも誰かを思うことはできるのか。

何もしない公爵夫人ですが、なぜか屋敷がうまく回っています

鷹 綾
恋愛
辺境公爵カーネル・クリスの妻となったフィレ・バーナード。 けれど彼女は、屋敷を仕切ることも、改革を行うことも、声高に意見を述べることもしなかった。 指示を出さない。 判断を奪わない。 必要以上に関わらない。 「何もしない夫人」として、ただ静かにそこにいるだけ。 それなのに―― いつの間にか屋敷は落ち着き、 使用人たちは迷わなくなり、 人は出入りし、戻り、また進んでいくようになる。 誰かに依存しない。 誰かを支配しない。 それでも確かに“安心できる場所”は、彼女の周りに残っていた。 必要とされなくてもいい。 役に立たなくてもいい。 それでも、ここにいていい。 これは、 「何もしない」ことで壊れなかった関係と、 「奪わない」ことで続いていった日常を描く、 静かでやさしい結婚生活の物語。

処理中です...