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色街の鬼
肆 赤い雪
しおりを挟む「悪いな、よねさん。あの子、もうここには来ないかもしれない。」
二人が帰って静まり返った店の中、俺はゆっくりとよねさんに語りかける。
「えぇ…『姐さんがお嫁に行く』と、あの子が言っておりました。泣きそうな顔で。余程慕っているのでしょうね。まだ若いのに、可哀想な事です。相手はあの『相模屋』だとか。不憫で仕方がありません。」
言葉が出て来ない。
俺もよねさんも、落ちた心を持ち上げられないまま。
ふらふらと店の奥へと引っ込んで行くよねさんに声を掛ける。
「なぁ、よねさん。鬼は居ると思うか。」
よねさんは沈んだ声色のまま返す。
「ここがどういう街なのか、若旦那もご承知のはずでしょう。そこら中が鬼だらけです。」
その通りだ。
忘れていた。
「若旦那。あなたにも鬼が見えます。何処で拾って来なさった?」
俺は何も返せなかった。
あれから、一月が過ぎた。
街は真っ白な雪に覆われて、ここが修羅の庭だという事を一瞬だけ忘れさせてくれた。
あれ以来、女は店に来ない。
羽織が出来上がった報告を廓にすると、相模屋の丁稚が、今晩届けに来いと告げに来た。
今日が輿入れなのだろう。
俺は、仕立てた羽織を持って、夜も更けた色街の門を潜った。
手が震えている。
寒さで、ではない。
初めて人を斬った恐ろしさで。
分厚い大根に鉈を振り下ろしたような手触り。
おそらく、あの感触は二度と忘れない。
路地裏に誘い込んで斬った警護の侍の血で赤く染まった雪を踏み越え、俺は廓に向かった。
二階の一部屋だけ灯りが灯っている。
入り口から堂々と踏み入っても、おそらく辿り着けない。
俺は廓の横手から二階の屋根によじ登り、足音を殺して部屋に近付いた。
中から、声が聞こえる。
しんと静まり返った街の中で、狐の鳴き声のような甲高い声が部屋から漏れ出している。
頭が割れそうだ。
聞きたくない。
『嬌声』
嫌がるでも、怒るでもない。
それは、『喜んでいる女』の声。
俺は鍵も掛かっていない窓を勢いよく開け、部屋へと躍り込んだ。
そこには、あるべくしてあるものが、あるべき姿でそこにあった。
裸の男女。
醜い猪と、白い鶴。
返り血を浴びて鬼の形相をした俺を見て、相模屋は素っ頓狂な悲鳴を上げた。
「助け、など必要無かったか…俺は、一体ここに、何をしに来たんだ…」
裸の男女を見て緊張の糸が切れ、へたり込んだ俺はそれしか言えなかった。
「どうしてこんなところまで来たのです!さっさと帰って!あなたが来るような場所では無いことくらい、最初から分かっていたでしょう!」
「分かっていたさ!何もかも分かっていて、それでも来た!この羽織を届けにな!」
俺は、出来上がった羽織を裸の女に投げ付けた。
女は、それを裸のまま纏う。
白い肌に朱の羽織、金の鳳凰。
こんな場所でなければ、息を飲むほど美しかっただろう。
「何故だ…お前は何故そんなに美しい…お前がそれほど美しい女でなければ、俺だって鬼になど成らずに済んだんだ…」
俺は何を言っている。
俺は誰を憎んでいる。
握り締めた刀が、手から溢れ落ちた。
「お、お前は呉服屋の倅か!こんな真似をしやがって!外に警護を立たせていただろう!斬ったのか⁉︎この人殺しめが!貴様、只では済まさんからな!」
裸の猪が吠えている。
頭に血が昇った俺の耳には、罵声は届かない。
「怖かったろう。さぁ、こっちに来い。この人殺しを切り刻んで、店も潰してやる!」
相模屋が女に手招きをする。
女は紅い羽織を翻し、蝶のようにゆっくりと相模屋の胸元に収まった。
「この女が欲しかったのか⁉︎阿呆め!貴様のような貧乏人が、焦がれる事すら図々しいんだ!金も力も無く、欲しがる事だけは人並みだ!恥を知れ!餓鬼が!」
そうだ。
俺は何も持っていない。
何も知らない。
ここが鬼の棲家だという事も。
あの女の名前すらも。
もういい…
充分だ…
殺してくれ…
俺が手元から落とした刀を拾い上げ、相模屋は大上段に振りかぶる。
こ、ここ
こ、こっ、こーっ
俺の頭上で、音の外れた竹笛のような音。
見上げると、相模屋の喉仏をあの金の花簪が貫いていた。
喉から飛び散る血飛沫。
縁起の悪い『下がり藤』は、返り血で真っ赤に染まっていた。
「お、お前…」
「さぁ。私も自分が何がしたいのか、よく分かりません。」
顔に浴びた血飛沫を拭きもせず、返り血でいっそ艶めかしくすらある笑顔を浮かべ、女は俺の頬を撫でた。
ざくり。
倒れ際に相模屋が振り下ろした刀が、女の脇腹を薙いだ。
階下から、階段を駆け上る音がする。
このままここに居るわけにはいかない。
俺は急いで女の手を掴み、分厚く積もった雪目掛けて二階から飛び降りた。
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