少女は夜に道化師となる

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第2章

亀裂

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涼は少し俯きながら帰路を辿っていた。

「(社長…怒らせてしまったんだろうか。雪城さんと一体何があったんだろう)」

重い足取りで家へ向かった。
家に着いて出迎えてくれたのはかわいい奥さんでなく、また母親でもない、6歳年下で大事な妹の蘭だ。
ドアを開けると嬉しそうに駆け寄り抱き着いてきた。

「おー、蘭!会いたかったよ!そうだ、話聞いてくれよ。今日奈央先輩の友人に会ったんだけど――」

涼は起こったことを全て話した。その間蘭は静かに話を聞いてくれていた。
話し終わると満足からか、強烈な眠気に襲われそのまま意識が夢の世界へと旅立った。

翌日、スズメの朗らかな鳴き声、暖かくて優しい光、少し冷たい爽やかな風で涼は目が覚めた。

「ふわぁ…ねむっ…今の時間は…」

時計を見ると針は9時を指していた。

「まだ9時か…ん?9時!?」

サッと血の気が引くのを感じた。

「やばい、やばい!!早く準備しないと!」

涼はそこから10分で支度を済ませ、急いで家を出た。
会社までの道。いつもならゆっくり歩きながら角にあるパン屋の焼きたてのパン、フェ・ミーラのコーヒーの豊潤な香りを鼻に感じながら向かっていたが、今日は違う。いつもの景色が早送りの様に流れている。
会社に着いたのは9時20分だった。

「しゃ、社長!すみません!遅れてしまいました」
「…大丈夫だ、まだ8時だぞ」
「えっ?う、うそ…僕の時計は9時に…」
「涼、お前の時計少し早いんじゃないか?」
「そ、そうみたいです。以後気を付けます」

そう言い時計を直す涼は少しシュンとしていたが、すぐ元に戻った。

「社長、今日の予定です。今日は――」

淡々と予定を告げていく。

「あぁ、わかった」
「それでは最初の企業に行きましょう」

そして時間が過ぎ夕方になって会社に戻った2人はそれぞれの部署を回り残業をする者がいないか等確認し、会社を出た。

「社長、ではまた明日。さようなら」
「あぁ、時計直しておけよ」
「は、はい!」

帰り道涼はフェ・ミーラに寄った。

「こんばんはー」
「おっ、涼君じゃないか」

マスターが出迎えてくれる。

「さあ座って。新作メニュー作ったんだ。食べてくれないか?」
「え?いいんですか?」
「いいともいいとも。涼君はこの店の大切な常連さんだし、味覚が凄い良いからな」
「そうですか?あまり味覚が良いと思ったことないんですけど…」
「いやいや、君が食べて美味しいと言った商品が、連日大人気で完売になるんだよ」
「ほんとですか?なんか凄いですね…そしたらいただきます」
「オーケー、今から作るから少し待っててね」
「はい」

そういうとマスターは手際よく料理を作り始めた。リズムよく食材を切る音、体に響くフライパンの音、にんにくの香ばしい香り…食欲が湧いてくる。グゥと腹の虫が鳴ったと同時に目の前に皿が置かれた。

「ベーコンチーズのクリーミーカルボナーラです。どうだ?旨そうだろ?」
「はい!凄く美味しそうです!いただきます!」

口に入れた瞬間、口内にニンニク風味のクリームが広がって電気を浴びたような衝撃をうけた。

「んん!すっごい美味しいです!この控えめなニンニクの香りと濃厚なクリーム、普通のスパゲッティでなくフェットチーネでクリームとの相性も良くて…うん。最高です!」
「そうかそうか。それならこのパスタは売れるな。良かった」

あまりの美味しさにすぐに食べ終え、食後のオレンジジュースを飲んでるとマスターが話しかけてきた。

「涼君、昨日濡れて入ってきた女性いただろう?」
「はい。なんか社長のご友人みたいですけど…」
「…そうか。涼君は少し気を付けた方がいいかもな。あの女性、何か裏があるぞ」
「そうですか。気を付けます。マスターのこういう女性関連の話はあてになりますからね」
「言うなって…」

暫く談笑したところで涼は会計をし、店を出た。

「ごちそうさまでした!また今度社長連れてきてあのパスタ食べますから!」
「フフッ、ありがたいね。店の経営が良くなるよ」
「またまた~そんな事言って、1人2人じゃあまり変わらないですよ~」
「フッ、結構変わるんだけどな」
「ハハッ、じゃあまた!」
「あいよ。気をつけてな」
「はーい!」

自宅へ向かう帰り道後ろから声をかけられた。

「あの、広里涼さんですか?」
「は、はい。そうですけど…」

栗色の腰まで届きそうな綺麗な髪。マスクをしているが、目元はバッチリメイク。パッと見ただけではわからなかったがよく見ると見覚えのある顔だった。

「やっぱり~!よかった、会えて~」
「えっと…雪城さんですよね…?会えてよかったってどういうー」
「あのね~、ずっと探してたの!昨日、多分勘違いしちゃったとのかもしれないから、ちゃんと話しておこうと思って…」
「昨日…ですか?」
「うん!立ち話もなんだから…あの店に入ろ!」

そう言って強引に涼の手を引いてフェ・ミーラへ入って行った。
店内に入るとマスターと目が合った。マスターはなにか言いたそうな顔をした。
涼も困り顔でマスターを見て、早紀に手を引かれるまま席に着いた。

「涼君、昨日私さ、奈央ちゃんに結構酷いこと言っちゃたでしょ?でもそれにはちゃんとした理由があるのぉ。聞いてくれる?」

早紀は潤んだ瞳で涼の手を軽く握り顔を少し傾け目をジーっと見つめ言った。
涼も男だ。そんな感じに言われては断ることも出来なかった。

「はい。いいですよ」
「よかった~。あのね、昨日何で私が奈央ちゃんにあんな事言ったのかってね?実は…中学の時にある事があったの…だからやり返し的な…ね?」
「あ、あの、あれって?」
「…いじめ」
「え…?もしかして…やり返しって…」
「うん。私…奈央ちゃんにいじめられてたの…」
「え…う、嘘ですよね…」
「本当…だよ。ほら、私放課後ギリギリまで遊んだって言ったでしょ?門が閉まるギリギリまで私に暴行してたの…だから、奈央ちゃん覚えてないって言ってたでしょ…」
「じゃ、じゃあ人生ドン底って言ったのも…」
「うん。そういうことなんだ…」
「で、でも、あの人がそんな事するはずが…」
「信じられないだろうけどこれが真実なの。あの人は…奈央ちゃんは平気でそんなことを出来る人だったの…」

早紀は自らを抱きフルフルと震え、目に涙を溜め言った。

「だから…奈央ちゃんに会った時私、本当は怖かった。足もガクガクしてて…でも奈央ちゃんは私を忘れたかったみたいだからつい…あんな暴言を…」

早紀はハンカチで顔を隠し方を震わせ小さく嗚咽を漏らした。

「そんなことが…あったんですか…でも、でも僕は、あの人がそんな事するはずないって信じたい…」

涼は俯き、申し訳なさそうに小さな声で言った。

「わかった。そんなに信じられないなら見せてあげる。あの時の傷を」

そう言うと早紀は震える手で袖をまくった。
そこにあったのは複数の切り傷と打撲痕だった。涼はとっさに早紀を抱きしめていた。
傷を見せられたと同時に涼の奈央への信頼心は砕け散った。

「ごめんなさい。信じられなくて…大丈夫です。僕は早紀さんを信じます。(…社長は…こんな弱くて可憐な人を傷つけられる人なんだ…)」
「ありがとう…よかった、信じてくれて…ごめんね、こんな醜い傷見せちゃって…」
「いいえ、大丈夫です。それよりもあの人がこんな事をしてたなんて幻滅しました」

その言葉に早紀はハンカチで顔を隠した。涼には、安堵から泣いているように感じたが、それを見てマスターは

「(女は怖いな…)」

と思った。
そして少し話をした後、会計をし早紀と別れた。
そのまま帰ろうとした涼をマスターが呼び止めた。

「涼君、待って」
「何ですか?」
「涼君…君はどちらを信じるんだい?」
「…早紀さんです。あんな話を聞いて傷まで見せられたら信じるほかないです。…マスターは社長を信じるんですか?」
「そうかい。いや、僕はどちらを信じるというよりも、涼君の考えを聞きたかっただけなんだ」
「…僕は社長が信じられなくなりました…。あんなに信頼していた人をこんなに一瞬で信頼できなくなるなんて…。…信用…信頼…いえ、見損なったが正しいのかもしれません。まさかあんなことをしていたなんて」
「うん…。ま、呼び止めて悪かった。また今度おいでね。気を付けて帰るんだよ。さよなら」
「はい…。ありがとうございました。さようなら」

店を出て、衝撃の事実で思考は働かず、重りが付いたように動かない足を必死に動かし、家に帰りベッドへ倒れ込んだ。

「奈央先輩…いじめをしていただなんて。今でも信じられない。雪城さんは今でもトラウマで…震えるくらい思い出したくもない記憶なのに、社長はそんな過去忘れたようにのうのうと生活していたなんて…」

そんな事を考えているうちに眠りについてしまった。
その頃奈央は涼と別れた後会社へ戻り一人パソコンへ向かっていた。


朝が来た。
涼は会社へ向かい、社長室のドアをノックしたが返事がない。まだ来ていないのかと思い合鍵でドアを開け、中に入ると社長が机に突っ伏していた。
慌てて呼びかけると、

「ん…あぁ、涼か。おはよう。すまんな、寝てしまっていた」
「そ、そうですか。寝ているだけならよかったです。では今日の予定です。今日は――」

奈央はいつもと違う様子の涼にどこか違和感を感じた。

「以上です。よろしいでしょうか」
「…涼、どうした」
「え?ど、どこか変なところがあったでしょうか?」
「いつもと違う」
「えっと、何がでしょうか?」
「テンションが、だ」
「…いつも通りですが」
「そうか、わかった。…すまない。それじゃ会議に向かうか。(私の思い違いか…?)」

会議室に向かう途中何人かの社員に会ったが、涼は普段通り元気に挨拶をしていた。けれど違和感はなくならない。社員に対する態度と奈央に対する態度の違い。そんな違和感を感じながらその日一日過ごした。そして終業後…

「涼、これからご飯でも食べに行かないか?」
「…結構です。今日は用事があるので。では、また明日」
「そうか…わかった。じゃあな」

奈央はこのもやもやとした気持ちを紛らわすため、休日よく行く店を訪ねた。
それは会社から徒歩10分ほどの距離にある夜香という名の居酒屋だ。
こじんまりとしていて、来る客も地元の常連ばかり。有名なわけでもない。だがこの店の雰囲気を気に入っている。まるで家へ帰った時のような家庭の温かみを感じることが出来るのだ。料理も家庭的でとても美味しいし店長は親身に話を聞いてくれる。独り身の奈央にはこのくらいの暖かさが丁度いいのだ。
引き戸を開け、のれんを潜ると店長が

「いらっしゃい」

と優しげな口調で迎えてくれた。

「奈央ちゃん、どうした?少し悲しそうな顔してるじゃん。ん?」

この優しさ。店長は誰よりもお客を気にかけてくれる。何かいつもと違うところがあればすぐ気づいてくれる。まるで母親の様だ。
だから奈央はつい甘えていつもの自分を崩してしまう。

「店長ー、聞いてくださいよ!なんかね?涼が冷たいの~!」
「涼ってあの秘書君?」
「そうですよ~あの秘書です~」
「はい、ビールね」
「あ!ありがとうございます!さっすが店長、よくわかってる~!」
「ふふ。それでその涼君がどうしたの?」
「だからぁ、冷たいんですってば~。他の社員にはいつもと同じなのに…私にだけ…!」
「そうなの…。困ったわね」

奈央は机に置かれた冷たいビールをグッと流しこんだ。

「はぁ…なんでかなぁ…」
「さぁ。でも奈央ちゃんが涼君の気に障る事したわけではないんでしょ?」
「はい、多分…」
「それなら今日は単に気分が悪かっただけとか何か気になる事でもあったとかじゃないの?」
「んー。まぁそれもそうかもしれないですね…。にしてもですけどね?あそこまで冷たい態度取られたら流石の私も傷つくもん…」

メニュー表を手に取って言った。

「でも…心配なんですよね…。私が知らず知らずのうちに傷つけてしまっていたんじゃないかって…」
「…あまり考えすぎない方がいいと思うわよ。さ、とりあえず飲んで食べてスッキリしましょ?私も付き合うし今日は奢ってあげるから」
「ハハッ、奢りは大丈夫です!けど、ありがとうございます」

居心地の良さと疲労からどんどん酒を飲み、結果潰れてしまった。
そして時間が経ち、時計は23時を指していた。時計の針の音と、煮物をクツクツと煮る音、洗い物をする水音が店内に静かに響いている。
その時カラカラと戸が開いた。

「いらっしゃい。1名様?」
「はい」
「好きなお席にどうぞ」

客人は奈央の隣に腰かけた。

「何になさいますか?」
「生ビールお願いします」
「はい」
「初めてこのお店来たんですけどいい雰囲気ですね。女将さんもお綺麗ですし」
「フフッ、ありがとうございます」
「あ、たこわさ頂いてもいいですか?」
「ええ」

机に置かれたビールを片手に客人はジッと奈央を見ていた。それに気づいた店長が一言口添えをした。

「あぁ、少しお仕事で悩んでたみたいで、潰れてしまったんですよ。どうかお気になさらないでくださいな」

店長がそう言った時

「ん…涼…めんな……ごめんなさい…」

奈央が寝言を発してしまいそれを聞いた客人はピクリとし、店長に尋ねた。

「あの。この方、N・S株式会社の社長で名前を川辺奈央という方ではないでしょうか?」
「…あの、お客様はお知り合いですか?」
「はい、私はN・Sグループ会長の九瀬春人と申します」

スッと胸ポケットから名刺を取り出し、店長に渡した。

「あの…仕事で悩んでたこと…教えていただいてもよろしいでしょうか?」
「か、会長さんでいらっしゃいましたか…失礼しました。ええ、大丈夫だと思います。詳しいところは私もわからないので聞いた話だけになりますが」
「大丈夫です。お願いします」

店長は奈央が話していたことを話した。その間春人は黙って聞いていた。話が終わると沈黙が流れ店に響くのは時計の音だけだった。春人が口を開こうとした時、奈央が起き上がって春人の方を向いた。

「会長…。今の話、聞いてしまったとしても…涼には話さないでください。お願いします」
「川辺さん、ううん。奈央ちゃん。起きてたんですね。大丈夫です。ただ、気になることがあるんですけど…」
「なんでしょうか?」
「なんでそんなに涼君が気になるんですか?たとえ彼に嫌われたとしても、仕事上だけの関係だからそこまで気にすることはないですし…それにいざとなれば変えられるので」
「それは…」

奈央は当たり前の事を言われ口ごもってしまった。

「奈央ちゃん。君のことは昔から……ううん、僕に話してください…絶対秘密にします。お願いです」
「……」
「奈央ちゃん、私も気にしないし、内緒にするわ。だから話してみたら?なんだか二人とも親しそうな仲みたいだし」

店長も気にしているみたいだった。そんな2人を見て奈央は話し出した。

「…実は、私中学の時いじめにあっていて…それ以来人に嫌われるのが怖くなってしまったんです」
「はい、知ってます。でも奈央ちゃん、その首の傷はその時のものなんですか?」
「え…首の…傷?」

奈央は咄嗟に首を隠そうと手を持っていった。だが、その手は春人に取られてしまった。

「奈央ちゃん。大丈夫、隠さないでください」
「で、でも…!」
「僕は気持ち悪いって思わないし、これを見たからといって奈央ちゃんに同情するつもりも無いし、憐れむわけでも無い。今更奈央ちゃんに対する気持ちは何も変わらない。だから僕の傍では安心して欲しいです」
「……」

奈央は掴まれた手を振りほどこうとしたが、とても固く、強く掴まれ振りほどくことなんて出来なかった。

「僕は…奈央ちゃん、君を守るよ。誰にも傷つけさせない。君を傷つけるものは何が相手でも許さない。…例え相手が涼君だとしても」
「えっ…な、なんでそこまで…」

困惑しているとグッと手を引かれ私の体は春人の腕の中にあった。そして

「僕は…ずっと奈央ちゃんの事が好きだった。奈央ちゃんと出会ったあの頃から。本当はこんな会社の社長になんてさせたくなかった。ずっと僕の傍にいてほしかった。離したくなかった。奈央ちゃんにどんな過去があったのかも知ってるし、どんな傷があるとしても僕の気持ちは変わらない。何よりも大事な奈央ちゃんがこんなに傷ついて辛いのに見てみぬふりなんて僕には出来ないんだ。涼君とのことも今日まで知らなかったことが許せない。気づかなくて本当にごめんなさい。今更だけど、僕はこれからも絶対に奈央ちゃんを傷つけないし、守り愛し続けると誓うよ。…だから僕とずっと一緒にいてくれませんか…?」

こんなにいっぱいの、愛ある言葉と優しい眼差しで見る春人に奈央は涙した。
なぜ涙がこぼれたのか。
それは今まで他人に愛されることなどなかった奈央の心が、こんなにも初めての愛を与えられ、困惑と喜びで震えているからだった。
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