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第21話:誓いの口づけ
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翌日。早朝から国王に呼び出されて、紗香は謁見の間にいた。
召喚された時は騎士団の者達に囲まれたが、あれは聖女の危険性を危惧してのことだった。やはり、還す時には誰もいないのか、と少しだけ落胆した。
しかしどうやって還すのだろう。部屋の中には、最低限の人間しかいない。国王、側近が一人、そして紗香。召喚士とかはいないのだろうか、と不安に思っていると、側近が紗香の元に来て、大きな袋を一つと、小さな袋を一つ渡した。
「あの……これは……?」
戸惑った紗香が問いかけると、それに答えたのは国王だった。
「それは旅の荷物と、今回の報奨金だ」
「は……?」
予想外の言葉に、意味のない声を漏らす。
混乱する紗香に、国王は淡々と告げた。
「お前には、すぐにこの国を出て行ってもらう」
呼吸が止まった。出て行く。出て行く?
「ま……待って、ください。わたしを、元の世界へ、帰してくださるのでは」
「あれは方便だ。騎士団の手前、ああ言うしかあるまい。彼らには、聖女は役目を終えたら帰すと約束していたのだから」
「話が違います。もう用はないのなら、何故、帰さずに追放なんですか」
「帰せぬからだ」
悪びれもせずに言う国王に、怒りとも焦りともつかぬ感情が腹の底から湧き上がってくる。
「どうして……」
「簡単な話だ。これまで、魔物は根絶できずにいた。つまり、帰還の条件を満たした聖女は存在しない。皆生涯をこの国で終えている。今まで、召喚は何度か行っているが、送還をしたことは一度たりともない」
「でも、方法はあるのでは」
「ない」
きっぱりと言い切った国王に、言い返す言葉が見つからなかった。
どうして。召喚と送還は、セットだとばかり思っていた。喚ぶ方法はあるのに、還す方法はないなど。
それを、今まで黙っていたのか。調べることもせずに。最初から、紗香を帰す気などなかった。いや、おそらく、紗香が役目を果たすとは思っていなかったのだ。これまでの聖女も、全てそうだったから。
そこまで考えて、紗香はあることに思い至った。
「待ってください。初代は、どうなんですか? 初代聖女は、国を救ったのでしょう。役目を果たしたんじゃないんですか。彼女は、どうしたんですか?」
「初代は結界によってこの国を守った。だが、それだけだ。魔物はその後も存在している。彼女もこの国で生涯を終えた」
「なら、騎士に寵愛を与えた聖女は? 寵愛の伝承が残っているということは、実行した誰かがいたはずです。その人も、追い出したんですか?」
「過去に寵愛を与えた聖女は、初代だけだ」
話が整理できずに、紗香は狼狽した。
寵愛を与えた聖女は、初代だけ。初代はこの国で生涯を終えた。
なら初代は、力を失ってから生を終えるまで、どうしていたのか。
「寵愛を与えた聖女は力を失う。ならば何故、この国には結界が残っていると思う」
問われて、はっとした。そうだ。
この国は初代聖女の結界に守られている。これは初代の力だ。この力が継続しているということは、何らかの方法で、彼女は力を取り戻したのではないか。
「初代聖女は、その命と引き換えにこの結界を残した」
想像したのとは全く別の答えに、紗香は愕然とした。
では、この国で生涯を終えた、というのは。
「これは力の強かった初代だからできたことではあるがな。彼女は寵愛を与えたことで、生きている内に使える力は失ってしまった。だから、その肉体と、生命と、魂の全てを犠牲に、この国に結界を張った。初代の魂は結界と共に、長年この国を見守ってきた」
「……ひどい……」
「だがその魂も、ようやく解放されたようだ。黒竜を打ち倒した後、結界は壊れた。役目を終えたからだろう。これで彼女も、安らかに眠れる」
唐突に、討伐の日の夢を思い出した。
あの白い光は。彼女は、おそらく初代聖女だ。
では金の光は。あれが、寵愛を与えた騎士だったのでは。
いったいどれだけ長い間、彼女の魂はこの国に囚われ続けていたのだろう。それがやっと終わったことに、彼女は涙していたのだ。
そして、愛しい人との再会に。彼女の魂が解放されるまで、きっと。初代の騎士も、待っていた。
どれだけかかるかわからない長い時を。それが永遠だとしても。
「初代はこの国に命を捧げた。しかしもう魔物はいない。お前の命を貰っても仕方がない。だからせめて生きる術をくれてやろうと、用意をしてやった。隣国は移住者に寛容だ。身元不明のお前でも、追い出しはしないだろう。表向きには、聖女は元の世界へ帰ったということにしておく。そういう約束だからな。国王として、約束を違えるわけにはいかない。つまり、お前がこの国にいては困るのだ。わかるな?」
有無を言わせない問いに、紗香は唇を噛みしめた。こんなの、頷く以外に選択肢がない。
紗香は帰れない。どれだけ喚いたところで、それを実行できる者が存在しない。
無理にこの国に残ろうとしたところで、もう紗香には利用価値がない。国からの庇護がなければ、紗香には住む場所も食べる物も、生きる術が何もない。
それに、帰ると言った紗香がこの国に残ることは、騎士団の不信を生む。せっかく、国が一つとなっているのに。今ここで、自分が争いの種になることは、紗香にはできなかった。
「――わかりました。今まで、お世話になりました」
頭を下げて、紗香は謁見の間から出て行った。
平凡な町娘の身なりをして。頭から目深にフードを被って。旅の荷物を背負って、紗香は城門からひっそりと出て行った。
街へ降りて、朝の静かな街並みを見ながら、自分はこの国を救ったのだと矜持を胸に抱いて。
人目につかないように、真っ直ぐに国を囲う城壁へと向かう。
そのまま国外へ続く門を出ようとした時、焦ったような声と共に手を引かれた。
「聖女様!」
驚いて振り返ると、そこには息を切らせたランドルがいた。
「ランドルさん。どうしてこんなところに?」
「昨日は城下に泊まったんですよ。それで、聖女様が見えて」
「よくわたしだってわかりましたね」
「俺が女の子見間違うわけないでしょ。って、そんなことはどうでもいいんです。何してるんですか。お一人で、そんな格好で」
「あー……朝の散歩?」
「怒りますよ」
さすがに誤魔化されてはくれなかったか。
険しい顔の彼に苦笑して、掴まれた手に視線を落とす。
しっかりと掴まれた手は、納得するまで離さないという強い意志を感じた。
「……わたしは、すぐにこの国を出て行かなければいけないんです」
「は?」
「国内に留まっていることが知れたら、大ごとになるかもしれません。だから」
「わかりました」
「えっえっ!?」
手を引いたまま、ランドルはずかずかと国境の門へ向かい、そのまま門の外へと出た。
一応紗香も手続き用の証書を渡されてはいるのだが、騎士の出入国は顔パスだ。ランドルに連れられた紗香は、そのまま門番にスルーされた。
「ほら、国の外に出ましたよ。ここならいいんでしょう」
「ここなら……って……」
確かに国からは出たが、ここはまだ城壁のすぐ外側だ。誰に見られるかわからない。ほとんど頓智の域だろう。
それでも、絶対に逃がさないという目をしたランドルに、紗香は深々と溜息を吐いた。
「で、どういうわけですか。ご自分の世界へ、帰ったんじゃなかったんですか」
「……帰せないそうです」
「……は」
「聖女は、喚べても、還せないそうです。その方法がないと。最初から、守る気のない口約束でした」
国王の言葉を信じた騎士に、どんな顔をして言えばいいのかわからなくて、紗香は視線を落としたまま告げた。
最初から帰れないとわかっていたら、自暴自棄になってしまうかもしれないから。頑張れば帰れると、あるはずのない希望をちらつかせた。
それも異界の聖女だけではない。自国の騎士までも、騙していた。きちんと仁義を通すからと、言い訳をして。真実すら伝えずに。なんて性質の悪い。
「宴の席で皆さんに告げたように、わたしは表向き故郷へ帰ったことになっています。そのわたしが国にいるわけにはいかないので、隣国へ移住するように勧められました。そのための資金は渡されています。だからわたしは、これから隣国へ向かいます」
ランドルが口を挟まないことを不思議に思いながらそろそろと視線を上げて、紗香はそれを後悔した。
これまでの人生で、これほど怖い表情は見たことがない。人が本気で怒ると、これほどまでに怖いのだと、初めて知った。
怯えて後退った紗香にはっとして、ランドルは顔を手で覆った。
「……あんた、それで、なんで大人しく出て行こうとしてるんですか。文句言えばいいでしょ。国を救った聖女ですよ。貴族より上の立場にだって、なれるはずなのに」
「まさか。最初から最後まで、わたしは国にとって異端者でした。交渉の余地はありません。それに、せっかく今、国が一つになっているんです。誰もが喜びを享受しているのに、わたしのわがままでそれを壊すわけにはいきません」
「その中にあんたはいないだろ!」
怒鳴られて、紗香の肩が跳ねる。ランドルは悔しそうに歯ぎしりした後、大きく深呼吸をした。
「……すみません。そうですね、聖女様は、そういう人でした。それにしたって一人で決めすぎです。それ、ケイト団長には相談したんですか」
「まさか! 無理ですよ。誰にも知られないために、こんな時間にこっそり出て行こうとしてるんですから」
「相談すべきです。国を出て行くだけが、解決策じゃない」
「でも、陛下が」
「要は陛下の面子を潰さずに、聖女様が国にいられる理由を作ればいいんでしょう。……そんな気を遣うのは業腹ですけど」
吐き捨てたランドルに、紗香は眉を下げた。どうもランドルの中で国王の株が大暴落してしまったようだ。今後の仕事に影響が出なければいいが。
「この国の結婚の話、覚えてますか」
「え……はい。相手が決められてるって話ですよね」
何故今このタイミングで。突然振られた話題にわけがわからず、首を傾げた。
「騎士には相手を選ぶ自由がある。それが聖女でも、構わないはずです」
紗香が目を丸くした。ランドルが説明を続ける。
「騎士と結婚すれば、聖女様はこの国の民になれる。閉鎖的な国ですが、外国との結婚を禁じてはいません。たいていは相手が決められているのでそうそうないことですが、騎士や貴族に限っては前例がある。聖女様は、帰れなかったのではなく、結婚のために自らの意志で帰らなかったのだ、ということにすれば角も立ちません」
急な話で混乱してはいるものの、ランドルの言っていることはわかる。確かに、理屈の上ではそうだ。だとしても。
「それは……無理です」
「どうして」
「相手がいません」
「団長がいるでしょう」
「それこそ無理です」
語気が強くなった紗香に、ランドルが眉を顰めた。
「団長に確認したんですか」
「していません。……できるわけがない。そんな提案をしたら、ケイトさんは断れない」
断れるわけがない。あの人が。
紗香の方からそれを言い出すのは、ほとんど脅しに近い。
紗香に直接「役目が終わったら帰す」という約束をしたのはケイトだ。元は国王からの約束事だったとしても、彼は自分が交わした約束だと、そう思っている。
そしてケイトは紗香から寵愛を受けている。紗香にその記憶はないが、つまりケイトは紗香の処女を奪っているのだ。
誇り高い騎士であるあの人なら。約束も守れず、女性を傷ものにしたと知ったら。
その人生に責任を取ろうとするのは、至極当然のことだろう。
ケイトに、紗香に対する気持ちが全くないとは思わない。だからこそ、いきなり結婚などと逃げ道を塞ぐような手段を提示したくない。義務感で結ばれれば、それは絶対にしこりとして残る。
「なら俺が貰います」
疑問の声を上げる前に、強く腕を引かれて抱き締められた。
「俺と結婚してください、聖女様」
頭まで抱え込まれて、その表情を窺うことはできなかった。
それでも、声でわかる。冗談なんかじゃない。
涙が零れそうだった。この優しい手を取ってしまえたら、どんなに楽だろう。
いつもそうだ。ランドルが示してくれるのは、優しくて、甘い道。その道を選べば、紗香はきっと幸せになれる。
でもそれに甘えていたら、他のものを傷つける。それもわかるから。
「ありがとうございます、ランドルさん。あなたの気持ちは本当に嬉しい。でも、ごめんなさい」
「俺じゃだめですか」
「他に好きな人がいるのに、自分の都合であなたを利用できません」
「俺は構いません。利用してください。必ず、貴方を幸せにしてみせるから」
「それじゃだめなんです。結婚は、二人が幸せにならないと」
ランドルの胸を押せば、彼は名残惜しそうにしながらも、紗香から体を離した。
「幸せになってください。あなたを幸せにしてくれる人と、一緒になってください」
「……その言葉、そっくりそのままお返ししますよ」
泣きそうな顔で憎まれ口を叩くランドルに、紗香も涙目で笑った。
「本当に行くんですか」
「はい。大丈夫です、自棄を起こしたわけじゃありません。自分を大切にすると、約束しましたから。ちゃんと生きます。住む場所を決めて、仕事を見つけて、自立して。立派に一人でやっていけるようになったら、この国にも顔を出します。そうしたらまた、会ってくれますか? その時は、友人として」
「……ええ。勿論。お待ちしてます」
親愛の握手を交わして、紗香は国に背を向けて街道を歩き出した。
振り返らない。振り返ったら、決意が鈍るから。
これは逃げじゃない。新しい人生への、一歩なのだ。
そうして紗香は暫くの間歩き続けた。簡単な地図は貰ったが、隣国までは紗香の足でいったいどれだけかかるものか。
紗香が一人で馬に乗れれば良かったのだが。馬は一頭くれると言われたものの、紗香が断った。乗りこなせないのに生き物を貰っても可哀そうだ。
しかし長距離移動に慣れていない紗香は、早くもへばりそうだった。こんなことなら、馬を貰っておけば良かったかもしれない。馬は賢い。無理に操ろうとしなければ、歩くくらいはただ乗っているだけでできたのでは。失敗した。
嘆いても仕方ない。少し休憩、と荷物を下ろして伸びをする。
目を閉じて風の音を聞いてリラックスしていると、遠くから蹄の音がした。いけない、馬が欲しすぎて幻聴が聞こえてきたか。
などとふざけている場合ではない。もし旅人だったら邪魔になる。こんな広い場所でわざわざ当たってこないだろうが、せめて端に避けるくらいはしよう、と目を開けて音の方を見た。
遠目に馬の姿が見える。その騎手を目にして、紗香は息を呑んだ。
まさか。見間違いだ。いるわけない。こんなところに。
「サヤカ様!」
幻聴だ。恋しくて、脳が勝手にまやかしを見せている。
視界が滲んで、まともに目が機能しなくなって、紗香は耳を塞いでしゃがみこんだ。何も見たくない。何も聞きたくない。幸せな夢など、見たくない。
「サヤカ様! どうかなさいましたか!?」
焦ったような声と共に、肩を揺すられる。
いつの間にか近くまで来ていたケイトが、馬を降りて、紗香の傍らに膝をついていた。
「嘘……。嘘です。いるはず、ない」
泣きじゃくる紗香の言葉に、ケイトは小さく息を吐いて、紗香の肩を抱いた。
「私です。ケイトです。ここに、サヤカ様の御側におりますよ」
「どうして……っ」
「ランドルから事情は聞きました。気づけずに、申し訳ありません」
あの人は、本当に。最後まで、余計なことを。
人のことばかり。損な人。
「会いたくなかった……!」
悲痛な紗香の言葉に、ケイトが息を呑んだ。
わざわざ会いに来てくれたのに、なんてひどい言葉だろう。
心配して来てくれたのに。だとしても、今、来てほしくはなかった。
こんなに弱っている時に支えられたら、全力で寄りかかってしまう。甘えてしまう。離せなくなる。
そんな風に、縛りたいわけじゃないのに。
「サヤカ様。私の話を、聞いていただけますか」
ひたすらに涙を零す紗香に、ケイトは優しい声色で言った。
「私は、貴方が元の世界に帰れなくて良かったと思っております」
驚きすぎて、涙が止まった。信じられない思いで目を見開き、ケイトを凝視する。
「ひどい男だと、お思いですか」
「……どう、して」
「私がサヤカ様をお慕いしているからです」
心臓が跳ねた。こんな状況なのに、その言葉を嬉しいと思う自分がいる。
「こうして想いを告げるのは、実は二度目なんです」
「えっ?」
「一度目は、寵愛をいただいた時に。あの時、貴方は正気ではありませんでしたが」
「え……ちょっと待ってください。聞き捨てならないんですけど、え、正気では? ない?」
「陛下が独断で、サヤカ様に薬を盛るように命じました。あの状況では、拒否することはできなかった。申し訳ありません」
言いたいことは色々あるが、正気ではなかったというところが紗香にとっては最も重要である。何をした。ひどい醜態をさらしたのではないかと、処女を奪われたことよりもそちらの方がよほど気になった。
「その時に、私は貴方に約束をしました。黒竜に勝った暁には、必ずもう一度想いを伝えると。でもその約束を、私は意図的に破りました。貴方が、帰るとおっしゃったから。故郷に帰るのなら、私の想いは邪魔になる。貴方があの夜を忘れているのなら、なかったことにするのが一番いいと思いました。サヤカ様が故郷で、愛しい人を見つけて、その方との記憶が最初となるように」
ケイトの気持ちは痛いほどわかる。紗香も、同じ思いで口にしなかった。
自分は帰るのだから。気持ちを伝えても仕方ないと。余計なものを残していくべきではないと。
でも、紗香は帰れなかった。
「サヤカ様の幸せを願うことが、私にできる唯一のことだと思っていました。貴方がどれだけ帰りたがっていたかを知っていたから。私のために残ってくれなどと言えるはずもない。せめて貴方の望む騎士の姿で別れたかった。貴方の記憶に残る私が、立派な男であるように。でも、貴方がこの世界に残るのなら話は別です」
ケイトが紗香の手をとって、真っ直ぐに目を見据える。
「サヤカ様を愛しています。どうか、私と結婚してください」
止まった涙が溢れ出す。何を言っても嗚咽になりそうで、言葉が出ない。
引きつりながら口を開閉させる紗香を、ケイトは辛抱強く待った。
「本当に、わたしで、いいんですか」
「サヤカ様がいいのです」
「責任を、感じてはいませんか」
「貴方の故郷を奪っておいて、喜ぶような男ですよ。他の者になど渡しません、奪い取ります」
都合のいい夢を見ている気分だった。でも、紗香の作り出した幻想なら、ケイトはこんなことは言わないだろう。完璧な紳士だと思っていた。こんな風に、独占欲を口にすることなど。
本当に。彼が、自分の意志で、紗香を望んでくれるのなら。
「わたしも……わたしも、ケイトさんが好きです。あなたと、ずっと一緒にいたい。わたしと、生きてくれますか」
「ええ――勿論」
ふわりと優しく笑った顔が、眩しすぎて目が眩んだ。
「サヤカ様。ここに、口づけを許していただけますか?」
親指で唇をなぞられて、かっと顔が熱を持った。
「そ、そんなの。聞かないでくださいっ」
「すみません。でも、どうか。あなたの口から、許しが欲しいのです」
結婚の約束をした恋人同士なら、キスくらい許可など取らなくてもいいのに。
けれどケイトには何か拘りがあるようで、紗香がはっきり口にするまでは、待ての姿勢だった。
羞恥に頬を染めながらも、紗香はケイトの目を見てねだった。
「キスしてください、ケイトさ、んっ!」
言い切らない内に、ケイトの唇が口を塞いだ。
そういえば、唇へのキスは初めてだ。
紗香がそれを特別視していたから、誰も、その唇を奪うことはしなかった。
これが、初めての。
感慨深く思いながら目を閉じる。その熱と柔らかさに、溶けてしまいそうだった。
「……ん、んう!?」
ぬるりとした熱いものが差し込まれて、紗香は反射的に目を開けた。
びっくりしてケイトの肩を押すが、後頭部を押さえられて、逃げられない。
「……んっ、ふう……、んむ」
初めてなのにまさかそうくるとは思わなくて、突然の事態に眩暈がする。
再びぎゅっと目を閉じて、うまく息ができない紗香を導くようにしながらも、ケイトのキスは性急だった。
欲しくて欲しくてたまらないものを、やっと手に入れたような。
「これで、やっと私のものです。私だけの……っ」
「ケイトさ、ちょっと、待っんん!」
そうして暫くの間。
ケイトが満足するまで、二人は長い長いキスを交わした。
召喚された時は騎士団の者達に囲まれたが、あれは聖女の危険性を危惧してのことだった。やはり、還す時には誰もいないのか、と少しだけ落胆した。
しかしどうやって還すのだろう。部屋の中には、最低限の人間しかいない。国王、側近が一人、そして紗香。召喚士とかはいないのだろうか、と不安に思っていると、側近が紗香の元に来て、大きな袋を一つと、小さな袋を一つ渡した。
「あの……これは……?」
戸惑った紗香が問いかけると、それに答えたのは国王だった。
「それは旅の荷物と、今回の報奨金だ」
「は……?」
予想外の言葉に、意味のない声を漏らす。
混乱する紗香に、国王は淡々と告げた。
「お前には、すぐにこの国を出て行ってもらう」
呼吸が止まった。出て行く。出て行く?
「ま……待って、ください。わたしを、元の世界へ、帰してくださるのでは」
「あれは方便だ。騎士団の手前、ああ言うしかあるまい。彼らには、聖女は役目を終えたら帰すと約束していたのだから」
「話が違います。もう用はないのなら、何故、帰さずに追放なんですか」
「帰せぬからだ」
悪びれもせずに言う国王に、怒りとも焦りともつかぬ感情が腹の底から湧き上がってくる。
「どうして……」
「簡単な話だ。これまで、魔物は根絶できずにいた。つまり、帰還の条件を満たした聖女は存在しない。皆生涯をこの国で終えている。今まで、召喚は何度か行っているが、送還をしたことは一度たりともない」
「でも、方法はあるのでは」
「ない」
きっぱりと言い切った国王に、言い返す言葉が見つからなかった。
どうして。召喚と送還は、セットだとばかり思っていた。喚ぶ方法はあるのに、還す方法はないなど。
それを、今まで黙っていたのか。調べることもせずに。最初から、紗香を帰す気などなかった。いや、おそらく、紗香が役目を果たすとは思っていなかったのだ。これまでの聖女も、全てそうだったから。
そこまで考えて、紗香はあることに思い至った。
「待ってください。初代は、どうなんですか? 初代聖女は、国を救ったのでしょう。役目を果たしたんじゃないんですか。彼女は、どうしたんですか?」
「初代は結界によってこの国を守った。だが、それだけだ。魔物はその後も存在している。彼女もこの国で生涯を終えた」
「なら、騎士に寵愛を与えた聖女は? 寵愛の伝承が残っているということは、実行した誰かがいたはずです。その人も、追い出したんですか?」
「過去に寵愛を与えた聖女は、初代だけだ」
話が整理できずに、紗香は狼狽した。
寵愛を与えた聖女は、初代だけ。初代はこの国で生涯を終えた。
なら初代は、力を失ってから生を終えるまで、どうしていたのか。
「寵愛を与えた聖女は力を失う。ならば何故、この国には結界が残っていると思う」
問われて、はっとした。そうだ。
この国は初代聖女の結界に守られている。これは初代の力だ。この力が継続しているということは、何らかの方法で、彼女は力を取り戻したのではないか。
「初代聖女は、その命と引き換えにこの結界を残した」
想像したのとは全く別の答えに、紗香は愕然とした。
では、この国で生涯を終えた、というのは。
「これは力の強かった初代だからできたことではあるがな。彼女は寵愛を与えたことで、生きている内に使える力は失ってしまった。だから、その肉体と、生命と、魂の全てを犠牲に、この国に結界を張った。初代の魂は結界と共に、長年この国を見守ってきた」
「……ひどい……」
「だがその魂も、ようやく解放されたようだ。黒竜を打ち倒した後、結界は壊れた。役目を終えたからだろう。これで彼女も、安らかに眠れる」
唐突に、討伐の日の夢を思い出した。
あの白い光は。彼女は、おそらく初代聖女だ。
では金の光は。あれが、寵愛を与えた騎士だったのでは。
いったいどれだけ長い間、彼女の魂はこの国に囚われ続けていたのだろう。それがやっと終わったことに、彼女は涙していたのだ。
そして、愛しい人との再会に。彼女の魂が解放されるまで、きっと。初代の騎士も、待っていた。
どれだけかかるかわからない長い時を。それが永遠だとしても。
「初代はこの国に命を捧げた。しかしもう魔物はいない。お前の命を貰っても仕方がない。だからせめて生きる術をくれてやろうと、用意をしてやった。隣国は移住者に寛容だ。身元不明のお前でも、追い出しはしないだろう。表向きには、聖女は元の世界へ帰ったということにしておく。そういう約束だからな。国王として、約束を違えるわけにはいかない。つまり、お前がこの国にいては困るのだ。わかるな?」
有無を言わせない問いに、紗香は唇を噛みしめた。こんなの、頷く以外に選択肢がない。
紗香は帰れない。どれだけ喚いたところで、それを実行できる者が存在しない。
無理にこの国に残ろうとしたところで、もう紗香には利用価値がない。国からの庇護がなければ、紗香には住む場所も食べる物も、生きる術が何もない。
それに、帰ると言った紗香がこの国に残ることは、騎士団の不信を生む。せっかく、国が一つとなっているのに。今ここで、自分が争いの種になることは、紗香にはできなかった。
「――わかりました。今まで、お世話になりました」
頭を下げて、紗香は謁見の間から出て行った。
平凡な町娘の身なりをして。頭から目深にフードを被って。旅の荷物を背負って、紗香は城門からひっそりと出て行った。
街へ降りて、朝の静かな街並みを見ながら、自分はこの国を救ったのだと矜持を胸に抱いて。
人目につかないように、真っ直ぐに国を囲う城壁へと向かう。
そのまま国外へ続く門を出ようとした時、焦ったような声と共に手を引かれた。
「聖女様!」
驚いて振り返ると、そこには息を切らせたランドルがいた。
「ランドルさん。どうしてこんなところに?」
「昨日は城下に泊まったんですよ。それで、聖女様が見えて」
「よくわたしだってわかりましたね」
「俺が女の子見間違うわけないでしょ。って、そんなことはどうでもいいんです。何してるんですか。お一人で、そんな格好で」
「あー……朝の散歩?」
「怒りますよ」
さすがに誤魔化されてはくれなかったか。
険しい顔の彼に苦笑して、掴まれた手に視線を落とす。
しっかりと掴まれた手は、納得するまで離さないという強い意志を感じた。
「……わたしは、すぐにこの国を出て行かなければいけないんです」
「は?」
「国内に留まっていることが知れたら、大ごとになるかもしれません。だから」
「わかりました」
「えっえっ!?」
手を引いたまま、ランドルはずかずかと国境の門へ向かい、そのまま門の外へと出た。
一応紗香も手続き用の証書を渡されてはいるのだが、騎士の出入国は顔パスだ。ランドルに連れられた紗香は、そのまま門番にスルーされた。
「ほら、国の外に出ましたよ。ここならいいんでしょう」
「ここなら……って……」
確かに国からは出たが、ここはまだ城壁のすぐ外側だ。誰に見られるかわからない。ほとんど頓智の域だろう。
それでも、絶対に逃がさないという目をしたランドルに、紗香は深々と溜息を吐いた。
「で、どういうわけですか。ご自分の世界へ、帰ったんじゃなかったんですか」
「……帰せないそうです」
「……は」
「聖女は、喚べても、還せないそうです。その方法がないと。最初から、守る気のない口約束でした」
国王の言葉を信じた騎士に、どんな顔をして言えばいいのかわからなくて、紗香は視線を落としたまま告げた。
最初から帰れないとわかっていたら、自暴自棄になってしまうかもしれないから。頑張れば帰れると、あるはずのない希望をちらつかせた。
それも異界の聖女だけではない。自国の騎士までも、騙していた。きちんと仁義を通すからと、言い訳をして。真実すら伝えずに。なんて性質の悪い。
「宴の席で皆さんに告げたように、わたしは表向き故郷へ帰ったことになっています。そのわたしが国にいるわけにはいかないので、隣国へ移住するように勧められました。そのための資金は渡されています。だからわたしは、これから隣国へ向かいます」
ランドルが口を挟まないことを不思議に思いながらそろそろと視線を上げて、紗香はそれを後悔した。
これまでの人生で、これほど怖い表情は見たことがない。人が本気で怒ると、これほどまでに怖いのだと、初めて知った。
怯えて後退った紗香にはっとして、ランドルは顔を手で覆った。
「……あんた、それで、なんで大人しく出て行こうとしてるんですか。文句言えばいいでしょ。国を救った聖女ですよ。貴族より上の立場にだって、なれるはずなのに」
「まさか。最初から最後まで、わたしは国にとって異端者でした。交渉の余地はありません。それに、せっかく今、国が一つになっているんです。誰もが喜びを享受しているのに、わたしのわがままでそれを壊すわけにはいきません」
「その中にあんたはいないだろ!」
怒鳴られて、紗香の肩が跳ねる。ランドルは悔しそうに歯ぎしりした後、大きく深呼吸をした。
「……すみません。そうですね、聖女様は、そういう人でした。それにしたって一人で決めすぎです。それ、ケイト団長には相談したんですか」
「まさか! 無理ですよ。誰にも知られないために、こんな時間にこっそり出て行こうとしてるんですから」
「相談すべきです。国を出て行くだけが、解決策じゃない」
「でも、陛下が」
「要は陛下の面子を潰さずに、聖女様が国にいられる理由を作ればいいんでしょう。……そんな気を遣うのは業腹ですけど」
吐き捨てたランドルに、紗香は眉を下げた。どうもランドルの中で国王の株が大暴落してしまったようだ。今後の仕事に影響が出なければいいが。
「この国の結婚の話、覚えてますか」
「え……はい。相手が決められてるって話ですよね」
何故今このタイミングで。突然振られた話題にわけがわからず、首を傾げた。
「騎士には相手を選ぶ自由がある。それが聖女でも、構わないはずです」
紗香が目を丸くした。ランドルが説明を続ける。
「騎士と結婚すれば、聖女様はこの国の民になれる。閉鎖的な国ですが、外国との結婚を禁じてはいません。たいていは相手が決められているのでそうそうないことですが、騎士や貴族に限っては前例がある。聖女様は、帰れなかったのではなく、結婚のために自らの意志で帰らなかったのだ、ということにすれば角も立ちません」
急な話で混乱してはいるものの、ランドルの言っていることはわかる。確かに、理屈の上ではそうだ。だとしても。
「それは……無理です」
「どうして」
「相手がいません」
「団長がいるでしょう」
「それこそ無理です」
語気が強くなった紗香に、ランドルが眉を顰めた。
「団長に確認したんですか」
「していません。……できるわけがない。そんな提案をしたら、ケイトさんは断れない」
断れるわけがない。あの人が。
紗香の方からそれを言い出すのは、ほとんど脅しに近い。
紗香に直接「役目が終わったら帰す」という約束をしたのはケイトだ。元は国王からの約束事だったとしても、彼は自分が交わした約束だと、そう思っている。
そしてケイトは紗香から寵愛を受けている。紗香にその記憶はないが、つまりケイトは紗香の処女を奪っているのだ。
誇り高い騎士であるあの人なら。約束も守れず、女性を傷ものにしたと知ったら。
その人生に責任を取ろうとするのは、至極当然のことだろう。
ケイトに、紗香に対する気持ちが全くないとは思わない。だからこそ、いきなり結婚などと逃げ道を塞ぐような手段を提示したくない。義務感で結ばれれば、それは絶対にしこりとして残る。
「なら俺が貰います」
疑問の声を上げる前に、強く腕を引かれて抱き締められた。
「俺と結婚してください、聖女様」
頭まで抱え込まれて、その表情を窺うことはできなかった。
それでも、声でわかる。冗談なんかじゃない。
涙が零れそうだった。この優しい手を取ってしまえたら、どんなに楽だろう。
いつもそうだ。ランドルが示してくれるのは、優しくて、甘い道。その道を選べば、紗香はきっと幸せになれる。
でもそれに甘えていたら、他のものを傷つける。それもわかるから。
「ありがとうございます、ランドルさん。あなたの気持ちは本当に嬉しい。でも、ごめんなさい」
「俺じゃだめですか」
「他に好きな人がいるのに、自分の都合であなたを利用できません」
「俺は構いません。利用してください。必ず、貴方を幸せにしてみせるから」
「それじゃだめなんです。結婚は、二人が幸せにならないと」
ランドルの胸を押せば、彼は名残惜しそうにしながらも、紗香から体を離した。
「幸せになってください。あなたを幸せにしてくれる人と、一緒になってください」
「……その言葉、そっくりそのままお返ししますよ」
泣きそうな顔で憎まれ口を叩くランドルに、紗香も涙目で笑った。
「本当に行くんですか」
「はい。大丈夫です、自棄を起こしたわけじゃありません。自分を大切にすると、約束しましたから。ちゃんと生きます。住む場所を決めて、仕事を見つけて、自立して。立派に一人でやっていけるようになったら、この国にも顔を出します。そうしたらまた、会ってくれますか? その時は、友人として」
「……ええ。勿論。お待ちしてます」
親愛の握手を交わして、紗香は国に背を向けて街道を歩き出した。
振り返らない。振り返ったら、決意が鈍るから。
これは逃げじゃない。新しい人生への、一歩なのだ。
そうして紗香は暫くの間歩き続けた。簡単な地図は貰ったが、隣国までは紗香の足でいったいどれだけかかるものか。
紗香が一人で馬に乗れれば良かったのだが。馬は一頭くれると言われたものの、紗香が断った。乗りこなせないのに生き物を貰っても可哀そうだ。
しかし長距離移動に慣れていない紗香は、早くもへばりそうだった。こんなことなら、馬を貰っておけば良かったかもしれない。馬は賢い。無理に操ろうとしなければ、歩くくらいはただ乗っているだけでできたのでは。失敗した。
嘆いても仕方ない。少し休憩、と荷物を下ろして伸びをする。
目を閉じて風の音を聞いてリラックスしていると、遠くから蹄の音がした。いけない、馬が欲しすぎて幻聴が聞こえてきたか。
などとふざけている場合ではない。もし旅人だったら邪魔になる。こんな広い場所でわざわざ当たってこないだろうが、せめて端に避けるくらいはしよう、と目を開けて音の方を見た。
遠目に馬の姿が見える。その騎手を目にして、紗香は息を呑んだ。
まさか。見間違いだ。いるわけない。こんなところに。
「サヤカ様!」
幻聴だ。恋しくて、脳が勝手にまやかしを見せている。
視界が滲んで、まともに目が機能しなくなって、紗香は耳を塞いでしゃがみこんだ。何も見たくない。何も聞きたくない。幸せな夢など、見たくない。
「サヤカ様! どうかなさいましたか!?」
焦ったような声と共に、肩を揺すられる。
いつの間にか近くまで来ていたケイトが、馬を降りて、紗香の傍らに膝をついていた。
「嘘……。嘘です。いるはず、ない」
泣きじゃくる紗香の言葉に、ケイトは小さく息を吐いて、紗香の肩を抱いた。
「私です。ケイトです。ここに、サヤカ様の御側におりますよ」
「どうして……っ」
「ランドルから事情は聞きました。気づけずに、申し訳ありません」
あの人は、本当に。最後まで、余計なことを。
人のことばかり。損な人。
「会いたくなかった……!」
悲痛な紗香の言葉に、ケイトが息を呑んだ。
わざわざ会いに来てくれたのに、なんてひどい言葉だろう。
心配して来てくれたのに。だとしても、今、来てほしくはなかった。
こんなに弱っている時に支えられたら、全力で寄りかかってしまう。甘えてしまう。離せなくなる。
そんな風に、縛りたいわけじゃないのに。
「サヤカ様。私の話を、聞いていただけますか」
ひたすらに涙を零す紗香に、ケイトは優しい声色で言った。
「私は、貴方が元の世界に帰れなくて良かったと思っております」
驚きすぎて、涙が止まった。信じられない思いで目を見開き、ケイトを凝視する。
「ひどい男だと、お思いですか」
「……どう、して」
「私がサヤカ様をお慕いしているからです」
心臓が跳ねた。こんな状況なのに、その言葉を嬉しいと思う自分がいる。
「こうして想いを告げるのは、実は二度目なんです」
「えっ?」
「一度目は、寵愛をいただいた時に。あの時、貴方は正気ではありませんでしたが」
「え……ちょっと待ってください。聞き捨てならないんですけど、え、正気では? ない?」
「陛下が独断で、サヤカ様に薬を盛るように命じました。あの状況では、拒否することはできなかった。申し訳ありません」
言いたいことは色々あるが、正気ではなかったというところが紗香にとっては最も重要である。何をした。ひどい醜態をさらしたのではないかと、処女を奪われたことよりもそちらの方がよほど気になった。
「その時に、私は貴方に約束をしました。黒竜に勝った暁には、必ずもう一度想いを伝えると。でもその約束を、私は意図的に破りました。貴方が、帰るとおっしゃったから。故郷に帰るのなら、私の想いは邪魔になる。貴方があの夜を忘れているのなら、なかったことにするのが一番いいと思いました。サヤカ様が故郷で、愛しい人を見つけて、その方との記憶が最初となるように」
ケイトの気持ちは痛いほどわかる。紗香も、同じ思いで口にしなかった。
自分は帰るのだから。気持ちを伝えても仕方ないと。余計なものを残していくべきではないと。
でも、紗香は帰れなかった。
「サヤカ様の幸せを願うことが、私にできる唯一のことだと思っていました。貴方がどれだけ帰りたがっていたかを知っていたから。私のために残ってくれなどと言えるはずもない。せめて貴方の望む騎士の姿で別れたかった。貴方の記憶に残る私が、立派な男であるように。でも、貴方がこの世界に残るのなら話は別です」
ケイトが紗香の手をとって、真っ直ぐに目を見据える。
「サヤカ様を愛しています。どうか、私と結婚してください」
止まった涙が溢れ出す。何を言っても嗚咽になりそうで、言葉が出ない。
引きつりながら口を開閉させる紗香を、ケイトは辛抱強く待った。
「本当に、わたしで、いいんですか」
「サヤカ様がいいのです」
「責任を、感じてはいませんか」
「貴方の故郷を奪っておいて、喜ぶような男ですよ。他の者になど渡しません、奪い取ります」
都合のいい夢を見ている気分だった。でも、紗香の作り出した幻想なら、ケイトはこんなことは言わないだろう。完璧な紳士だと思っていた。こんな風に、独占欲を口にすることなど。
本当に。彼が、自分の意志で、紗香を望んでくれるのなら。
「わたしも……わたしも、ケイトさんが好きです。あなたと、ずっと一緒にいたい。わたしと、生きてくれますか」
「ええ――勿論」
ふわりと優しく笑った顔が、眩しすぎて目が眩んだ。
「サヤカ様。ここに、口づけを許していただけますか?」
親指で唇をなぞられて、かっと顔が熱を持った。
「そ、そんなの。聞かないでくださいっ」
「すみません。でも、どうか。あなたの口から、許しが欲しいのです」
結婚の約束をした恋人同士なら、キスくらい許可など取らなくてもいいのに。
けれどケイトには何か拘りがあるようで、紗香がはっきり口にするまでは、待ての姿勢だった。
羞恥に頬を染めながらも、紗香はケイトの目を見てねだった。
「キスしてください、ケイトさ、んっ!」
言い切らない内に、ケイトの唇が口を塞いだ。
そういえば、唇へのキスは初めてだ。
紗香がそれを特別視していたから、誰も、その唇を奪うことはしなかった。
これが、初めての。
感慨深く思いながら目を閉じる。その熱と柔らかさに、溶けてしまいそうだった。
「……ん、んう!?」
ぬるりとした熱いものが差し込まれて、紗香は反射的に目を開けた。
びっくりしてケイトの肩を押すが、後頭部を押さえられて、逃げられない。
「……んっ、ふう……、んむ」
初めてなのにまさかそうくるとは思わなくて、突然の事態に眩暈がする。
再びぎゅっと目を閉じて、うまく息ができない紗香を導くようにしながらも、ケイトのキスは性急だった。
欲しくて欲しくてたまらないものを、やっと手に入れたような。
「これで、やっと私のものです。私だけの……っ」
「ケイトさ、ちょっと、待っんん!」
そうして暫くの間。
ケイトが満足するまで、二人は長い長いキスを交わした。
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